基礎知識

イスラム教とキリスト教の違いを一目で理解

更新: 高橋 誠一
基礎知識

イスラム教とキリスト教の違いを一目で理解

イスラム教とキリスト教は、いずれもアブラハムを共通の祖とする兄弟宗教であり、キリスト教徒とユダヤ教徒を「啓典の民」と呼ぶイスラム教の姿勢にも、その共通の土台が表れています。

イスラム教とキリスト教は、いずれもアブラハムを共通の祖とする兄弟宗教であり、キリスト教徒とユダヤ教徒を「啓典の民」と呼ぶイスラム教の姿勢にも、その共通の土台が表れています。
コーランには25名の預言者が登場し、うち20名がヘブライ語聖書と重なるため、両宗教は対立する別物というより、同じ根から枝分かれした関係として見ると理解しやすいでしょう。
筆者がカイロやイスタンブールでイスラム学を学んでいたときも、ムスリムの友人とキリスト教徒の友人が同じアブラハムの物語を語りながら、まったく異なる結論に至る場面を何度も目にしました。
だからこそ、神の捉え方、イエスの位置づけ、救済観、日常の実践を並べてたどると、違いは敵対ではなく同根の分岐として見えてきます。

そもそも同じ起源を持つ「兄弟宗教」

イスラム教、キリスト教、ユダヤ教は、互いに切り離された別系統というより、アブラハムを共通の祖とする「アブラハムの宗教」として重なり合う部分の大きい宗教です。
コーランには25名の預言者の名が記され、そのうち20名がヘブライ語聖書と共通しているため、両者のあいだには人物名の段階から深い連続性があります。
まずこの土台を押さえると、対立だけを前面に出した見方では見えにくい、共通の世界観が立体的に見えてきます。

アブラハムを共通の祖とする三宗教

アブラハムは、イスラム教・キリスト教・ユダヤ教の三宗教を結ぶ起点です。
三者は同じ唯一神を信じるという基本線を共有しながら、それぞれの歴史の中で教義や実践を発展させてきました。
したがって、イスラム教とキリスト教を考えるときも、最初から「まったく別の宗教」とみなすより、同じ根から枝分かれした兄弟宗教として眺めたほうが理解しやすいのです。

この連続性は、人物の重なりにもはっきり表れます。
コーランには25名の預言者の名が記され、そのうち20名がヘブライ語聖書と共通します。
モーセ(ムーサー)やイエス(イーサー)も預言者として登場するため、イスラムの聖典を読むと、聖書の物語が別世界のものではなく、同じ宗教史の延長線上に置かれていることがわかります。
イスラム圏の博物館でアブラハムやモーセを主題にした写本や装飾に出会うと、その地続きの感覚は一層はっきりするでしょう。

イスラム教がキリスト教徒を『啓典の民』と呼ぶ理由

イスラム教では、ユダヤ教徒とキリスト教徒を『啓典の民』と呼びます。
これは、彼らが神から啓典を授かった人々であり、啓示の歴史を共有する仲間だと位置づける考え方です。
単なる礼儀表現ではなく、イスラム教が他宗教をどう理解してきたかを示す基本概念だと言えます。

留学先のモスクで、ムスリムの案内人が「私たちもイエスを預言者として敬っている」と語ったことがありました。
その一言で、日本人が抱きがちな「全く別の宗教」という先入観が崩れたのを覚えています。
イスラム教がイエスを神ではなく預言者として敬うこと、そしてユダヤ教徒やキリスト教徒を『啓典の民』として認めることは、排除よりも系譜の共有を先に置く発想です。
ここを押さえると、両宗教の関係が対立一色ではない理由が見えてきます。

成立年代と発祥地の違い

キリスト教は1世紀にユダヤ教から派生し、イエスの生涯と復活に基づいて広がりました。
イスラム教は7世紀初頭にアラビアで始まり、ムハンマドが610年頃に啓示を受けたことが出発点です。
両者のあいだには約6世紀の時間差があり、この差がそのまま宗教史上の前後関係を形づくっています。

この時間差は、イスラム教がキリスト教を先行宗教として認識する背景にもつながります。
後に成立した宗教が、先に現れた啓示の歴史を受け止めながら自らの立場を定めた、という順序です。
イスラム圏の博物館でアブラハムやモーセの写本を見たとき、聖書物語とコーランの世界観が競合しつつも、同じ大きな流れの中にあると感じられるのは、その歴史的な前後関係があるからでしょう。

最大の違いは「神の捉え方」

イスラム教とキリスト教は、いずれもアブラハムを共通の祖とする兄弟宗教であり、同じ唯一神を起源に持つと理解されます。
呼び名は英語で God、アラビア語で Allah、ヘブライ語で Yahweh と異なりますが、名称の差そのものが別の神を意味するわけではありません。
違いがはっきり現れるのは、その神をどう捉えるかです。
キリスト教は三位一体を中心に据え、イスラム教はタウヒードによって神の絶対的唯一性を守ろうとします。

呼び名は違っても起源は同じ神

筆者がアラビア語原典で「言え、かれはアッラー、唯一なる御方」と説く章句に触れたとき、唯一性の強調は日本語訳以上に研ぎ澄まされていると感じました。
God、Allah、Yahweh という呼称の違いは、神そのものの分裂を示すものではなく、各共同体の言語と歴史の上で育った表現の違いにすぎません。
だからこそ、イスラム教とキリスト教、ユダヤ教はしばしば別物として語られても、神の起源をたどれば接点を持つのです。
ここを押さえると、後に続く教義差が単なる「神の数」の違いではないと見えてきます。

三位一体を認めるキリスト教、認めないイスラム教

キリスト教の神理解の中核にあるのが、父・子・聖霊の三位一体です。
神は唯一でありながら三つの位格を持つ、というこの教義は、イエスを受肉した神の子として理解する立場と結びついています。
対してイスラム教はタウヒード、すなわち神の絶対的唯一性を信仰の核に置き、神に位格があるとか、分割や分有があるという考え方を退けます。
アラビア語の原典で読むと、この一点は教理の細部ではなく、信仰の中心軸そのものだと分かるでしょう。

この差が決定的なのは、イスラム教が神に「子」を想定する発想自体を受け入れないからです。
キリスト教にとっては三位一体が神の豊かさを表す中心概念ですが、イスラム教から見れば、それは唯一性を損なう表現になりえます。
イエスをどう位置づけるかもここで分かれ、キリスト教では救済史の核心に、イスラム教では最重要の預言者の一人として置かれます。
おすすめです、両者を比較するときは、似た言葉よりも神の本質理解に注目してみてください。

偶像崇拝に対する態度の違い

偶像崇拝への態度も、神の捉え方の違いを空間のかたちとして示します。
イスラム教は神の唯一性を守るため、偶像崇拝を徹底して禁じ、神や預言者を像や絵に描きません。
イスタンブールのモスクとヨーロッパの大聖堂を続けて訪ねたとき、一方は幾何学文様と書道のみで満ち、他方は聖人像やステンドグラスに包まれていました。
神をどう表すか、あるいは表さないかが、建築の内部にそのまま現れていたのです。

キリスト教は宗教美術や聖像への態度がイスラム教ほど厳格ではなく、教派によって幅があります。
ここでは「見えない神」をいかに礼拝するかよりも、「見える形」で信仰を支える工夫が重なってきたと考えると理解しやすいでしょう。
イスラム教のモスクで幾何学文様や書道が洗練されていった背景にも、神を像に固定しないという神学的配慮があります。
見学するときは、装飾の有無ではなく、その背後にある神学を意識してみてください。

イエスは「神の子」か「預言者」か

キリスト教とイスラム教は、ともにイエスを特別な存在として扱いながら、その位置づけをまったく異なる形で定めています。
前者ではイエスは神の子であり、受肉した神そのものとして信じられ、後者ではイーサーという名で尊敬すべき預言者に置かれます。
この違いは単なる呼び名の差ではなく、神とは何か、人間はどこまで神性に触れうるのかという信仰の核心に関わるものです。

受肉した神とするキリスト教のイエス観

キリスト教では、イエスは神の子であり、受肉した神そのものだと理解されます。
父・子・聖霊という三位一体のうち、イエスは子として神の自己啓示を担う存在であり、救いの中心に立つのです。
教会で聞くイエス=救い主という説教は、単に偉大な教師を讃える話ではなく、神が人間の歴史に入ってきたという告白に支えられています。
だからこそ、十字架と復活が信仰の要となります。

尊敬すべき預言者イーサーとするイスラム教

イスラム教では、イエスはイーサーとして知られ、神ではなく人間の預言者と位置づけられます。
神の子という考え方も三位一体の一部とみなす考え方も、ここでは明確に退けられます。
ただし、その否定は軽視を意味しません。
イーサーは五大預言者の一人として深く敬われ、処女マリアから生まれた特別な預言者と受け止められています。
モスクでイエス=偉大な預言者という解説を聞くと、同じ人物がここまで異なる役割を担うのかと驚かされます。

ムスリムの学友に「あなたたちもイエスを信じているのか」と尋ねたとき、「預言者として敬うが神とはしない」と即答されたことがありました。
敬意はあるが神格化はしない、その線引きの明快さが印象に残ります。
キリスト教の教会で聞くイエス像と並べて思い返すと、両宗教が共有する敬意と、越えてはならない境界線の両方が見えてきます。

磔刑と復活をめぐる解釈の違い

両者の差は、磔刑と復活の理解でさらに鮮明になります。
キリスト教では、イエスの十字架上の死と復活が救済の中核であり、人間の罪を贖う出来事として受け止められます。
これに対してイスラム教では、イエスの死と復活の理解が異なり、その出来事を同じ救済史の中心には置きません。
ここが違うため、神と人間、そして救いの関係そのものが別の輪郭を持つことになります。

この解釈差は、次章以降で扱う救済観の違いへ直結します。
イエスをどう理解するかは、単なる人物評価ではなく、信仰体系の土台をどのように組み立てるかという問題なのです。

聖典の違い ― 聖書とコーラン

聖書とコーランは、どちらも一神教の神の言葉を受けとる経典ですが、成り立ちと権威の置き方は大きく異なります。
キリスト教では旧約聖書と新約聖書が並び、イスラム教では旧約・新約を先行啓示として認めつつ、『コーラン』を最終啓示として位置づけます。
ここを押さえると、同じ預言者の名が出てきても、両宗教で語り方がなぜ違うのかが見えやすくなります。

聖書(旧約・新約)の構成と位置づけ

キリスト教の聖典は、旧約聖書と新約聖書から成ります。
旧約はユダヤ教と共有する部分が多く、創世から預言、契約の歴史を通して神と人との関係を描きます。
新約はそこに続く形で、イエスの生涯、教え、死と復活を中心に据え、救いの出来事を新しい段階として示します。
両者は別々の本ではなく、連続する物語として読まれるところに特徴があります。

そのため、聖書を読むときは、旧約が土台で新約がその解釈と完成形を担う、という構造が見えてきます。
例えば同じ預言や人物でも、新約ではイエスとの関係の中で意味づけが変わることがあるのです。
聖書の翻訳が広く受け入れられてきた背景には、こうした物語全体を各言語で共有するという発想があります。

コーランを最終啓示とするイスラム教の考え方

イスラム教では、『コーラン』は旧約聖書と新約聖書に先立つ啓示を確証すると同時に、最終的にそれらを置き換えるものと考えられます。
ここでいう置換は、過去の啓示を否定して消し去るという意味ではありません。
むしろ、先行する啓示の正しさを認めつつ、最終版としての基準を『コーラン』に置く、という意味合いです。
だからこそ、聖書の諸伝承と共通する人物や物語があっても、イスラム教では『コーラン』の語りが優先されます。

『コーラン』はアラビア語で下された神の言葉そのものとされ、翻訳はあくまで意訳や解説として扱われます。
朗誦でアラビア語の韻律を初めて聞いたとき、意味を追う前に音そのものが信仰体験として働くのだと感じました。
翻訳では伝わらない聖典という感覚は、まさにこの原語中心の考え方に支えられています。
読解の場面でも、聖書と並べると同じ預言者の物語が細部で異なり、同じ源流から枝分かれしてきた筋道が立ち上がってきます。

啓示を伝えた預言者の役割の違い

預言者の位置づけも、両宗教で明確に異なります。
キリスト教ではイエス自身が信仰の対象であり、その存在そのものが救いと結びつきます。
これに対してイスラム教では、ムハンマドは神の言葉を伝える最後の預言者であり、崇拝の対象ではありません。
神と人とのあいだを取り持つのではなく、ただ啓示を忠実に伝える役割に徹するのです。

この違いは、聖典の読み方にもそのまま反映されます。
イエスが中心にある宗教と、啓示の最終形が文字通りの神の言葉として保たれる宗教では、権威の置き方が変わります。
ムハンマドをどう理解するかを押さえると、『コーラン』がなぜ強い規範性を持つのかも、より自然に見えてきます。

救済観と原罪のとらえ方が正反対

キリスト教とイスラム教は、どちらも最後の審判を共有しながら、原罪をどう捉えるかと救いをどう得るかで大きく分かれます。
前者は人間が生まれながらに罪を負うという認識から、後者は罪なく生まれた人が自らの行いに責任を持つという認識から組み立てられているためです。
宗教学の講義でこの一点を知ったとき、両宗教の人間観が想像以上に深いところで分かれているのだと強く感じました。

原罪を前提とするキリスト教の人間観

キリスト教では、人間はアダムとイブの罪、すなわち原罪を生まれながらに負っていると考えます。
ここでは「善いことをすれば自力で十分」という発想は中心に置かれません。
そもそも人間は完全ではなく、救いを必要とする存在だという前提があるからです。
だからこそ、救いは自分の努力の積み上げではなく、神の側から与えられるものとして理解されます。

その核心にあるのが、イエスの受肉と十字架の死による贖いです。
人間が自分の力だけで罪を清算するのではなく、イエスの犠牲を信じることによって救われる、いわゆる信仰による救いの考え方ですね。
人間の限界を出発点にするからこそ、信仰が決定的な意味を持つのです。

罪なく生まれるとするイスラム教の人間観

イスラム教では、人間は罪なく生まれるとされ、原罪をその子孫が引き継ぐとは考えません。
生まれた時点で負債を抱えた存在ではなく、各人が自分の選択と行いに責任を持つという人間観です。
ここがキリスト教との対照を最も鮮やかに示す点でしょう。

ラマダーン中のムスリムを取材すると、日中の断食だけでなく、寄付や祈り、言葉遣いまで含めて善行を意識して過ごす姿が印象に残りました。
救いは与えられるものというより、日々の実践で積み上げるものだという感覚が、生活の細部にまで入り込んでいるのです。
イスラム教の人間観を理解するうえでは、この日常的な倫理の重みを見落とせません。

信仰による救いと行いによる救い

キリスト教の救済は、イエスの受肉と十字架の死による贖いを信じることに軸があります。
人間の努力が無意味というわけではありませんが、救いそのものを成立させる中心は信仰です。
救済の出発点が神の側にあるため、信じることが何よりも決定的になるわけです。

イスラム教では、信仰に加えて善行を重ねることが救いに深く関わります。
祈りや断食、施しのような実践が、単なる規則ではなく、自分の責任を生きる具体的な手段になるのです。
もっとも、両宗教は最後の審判という終末観を共有しており、生前の行いが裁かれ、天国と地獄が分かれるという点では通じ合っています。
違いは、救いに至る道筋が「信じること」に重心を置くか、「信じて行うこと」に重心を置くかにあります。

礼拝・断食・巡礼 ― 実践面の違い

イスラム教とキリスト教の違いは、日常の実践に目を向けるといっそう鮮明になります。
礼拝、断食、巡礼はいずれも信仰を形にする行為ですが、その頻度や重みづけは同じではありません。
イスラム教では五行に組み込まれた規律として生活を整え、キリスト教では教派や共同体の伝統に応じて比較的幅のある実践が広がっています。

礼拝の頻度と向きの違い

イスラム教の礼拝は、1日5回メッカの方角、つまりキブラに向かって行うサラートが基本です。
留学中、礼拝の時間になるとモスクからアザーンが街に響き、買い物や仕事の流れがその音に合わせて一度ほどけていく光景を何度も見ました。
信仰が特定の時間に区切られるのではなく、生活のリズムそのものに溶け込んでいるのです。
対してキリスト教では、主な礼拝の中心は日曜の教会礼拝で、日々の祈りは教派や個人によって幅があります。

この差は、祈りを「いつ行うか」だけでなく、「共同体の時間をどう作るか」にも表れます。
イスラム教の礼拝は、決まった回数と向きによって身体の所作まで整え、同じ時刻に各地のムスリムを結びます。
日曜礼拝を軸にするキリスト教は、週の中に信仰の節目を置く構造で、日常への入り方がよりゆるやかだと言えるでしょう。
礼拝の形式の違いは、そのまま信仰生活の設計思想の違いでもあります。

断食の意味と期間の違い

ラマダーン月の断食は、日の出から日没まで飲食を断つ実践で、イスラム教では精神の鍛錬として位置づけられます。
取材でラマダーン中の街を歩いたとき、日没とともに人々が一斉に断食を解く場面に立ち会い、静かな個人修行がそのまま連帯の儀礼にもなることを実感しました。
空腹に耐えること自体が目的なのではなく、恵まれない人への共感や自己抑制を体に覚え込ませる点に意味があります。
食事のタイミングが社会全体で共有されるので、断食は孤立した努力では終わりません。

キリスト教にも復活祭前の四旬節という、約40日にわたる節制の伝統があります。
ただし、こちらはラマダーンのように日中の飲食を一律に禁じる制度ではなく、節制の内容や厳格さには幅があります。
つまり、同じ「断つ」という行為でも、イスラム教では共同体全体を巻き込む明確な規律として、キリスト教では悔い改めや自己省察を支える柔らかな伝統として現れるのです。
断食の比較は、宗教が人間の欲望をどう整えるかを見せる手がかりになります。

巡礼の位置づけと聖地の違い

イスラム教では、心身と経済が許せば一生に一度メッカへ巡礼するハッジが務めとされ、五行の一つに数えられます。
単なる旅行や信仰心の表明ではなく、信者としての基本的な責務に組み込まれている点が重要です。
巡礼が義務であることは、信仰が個人の内面だけで完結せず、具体的な移動や共同体への帰属確認を伴うことを示しています。
礼拝や断食と同じく、身体を通して信仰を確かめる仕組みだと考えるとわかりやすいでしょう。

キリスト教では巡礼は義務ではなく、主要な聖地としてエルサレム、バチカン、サンティアゴ・デ・コンポステーラなどが知られています。
ここでは、どこへ行くか以上に、何を祈り何を思い返すかが重視されます。
イスラム教のハッジが五行として制度化された巡礼であるのに対し、キリスト教の巡礼は信仰の深め方として選ばれる性格が強いのです。
巡礼地の違いも含めて見ると、両宗教の実践は、義務として形を整えるか、敬虔の表現として広がりを持たせるかという点で対照的です。

食事・聖職者など暮らしのルールの違い

イスラム教とキリスト教の違いは、教義だけでなく日々の暮らしの細部にまで現れます。
食べるもの、宗教的な権威を担う人の位置づけ、そして空間をどう美しく飾るかまで、生活実務の感覚が変わるからです。
日本で外食や観光をするときも、その差は意外なほど身近に見えてきます。

食のタブー ― 豚肉・飲酒をめぐって

イスラム教では、豚肉とアルコールが明確に禁じられ、許された食べ物であるハラールにも屠殺方法まで含む規定があります。
ここでのハラールは単に「食べてよい料理」という意味にとどまらず、「許された」という語感のとおり、暮らし全般の基準を支える考え方です。
日本のハラール対応レストランを取材したとき、調味料や調理器具の扱いまで細やかに整え、ムスリムの客が安心して食事できるよう工夫していたのが印象に残りました。
食のルールは信仰の話であると同時に、日常の接点そのものだと実感させられます。

キリスト教は、断食期間などを除けば食事への厳格な制限が少なく、かなり自由度が高いのが対照的です。
何を食べるかが共同体の境界を日常的に示すイスラム教に対し、キリスト教では食の規律よりも祈りや儀礼のほうに重心が置かれやすい。
だからこそ、旅行先や外食先で両者の違いが表面化すると、宗教は抽象的な思想ではなく、注文の一皿にまで入り込む現実だとわかります。

聖職者という存在の有無

イスラム教のウラマーは、建前上は「聖職者」ではなく、宗教学者として位置づけられます。
税の免除などの特権を持つわけでもなく、妻帯禁止や禁欲を課される制度でもありません。
知識の深さによって共同体から尊重される存在ではありますが、身分として切り分けられた聖職階級とは性格が異なるのです。
宗教的権威が人に固定されにくい点は、イスラム教の共同体のあり方を理解するうえで見逃せないでしょう。

これに対してキリスト教には、神父や牧師という聖職者制度があります。
カトリックの神父は妻帯しないなど、生活規範まで含めて役割が制度化されているのが特徴です。
つまり、信仰を導く人が「特別な身分」として立つのか、それとも学識ある導き手として共同体の内側にいるのかで、宗教組織の見え方は大きく変わる。
礼拝の場で誰が何を担うのかを見れば、その違いはすぐに感じ取れます。

宗教美術・偶像表現への姿勢

宗教美術の表れ方にも、両宗教の考え方の差がくっきり出ます。
イスラム教は偶像表現を避け、幾何学文様のアラベスクやアラビア書道のカリグラフィーで空間を満たしてきました。
留学中にモスクの内部を見たとき、人物像を一切持たない装飾が、かえって静かな緊張感と豊かな秩序を生み出していることに気づきました。
偶像を避ける信仰が、そのまま美の様式を形づくっているのです。

キリスト教では、聖像や聖画、ステンドグラスのような具象的な宗教美術が発達しました。
人物の姿を描き、物語を視覚化することで、信仰の内容を目に見える形で伝えていくわけです。
空間をどう神聖にするかという問いに対して、イスラム教は抽象と反復で、キリスト教は具象と物語で応えてきた、と整理するとわかりやすいでしょう。
景観の違いは、そのまま信仰の違いです。

信者数と世界での広がり

キリスト教とイスラム教は、いずれも世界の宗教地図を形づくる中心的存在です。
キリスト教は世界人口の約31%にあたる約24億人、イスラム教は約26%を占め、両者だけで世界人口の半分を超えています。
宗教を単なる信条ではなく、人口規模と社会的影響力として見ると、この二つの重みは際立ちます。

世界二大宗教としての規模

宗教世界人口に占める割合信者数現在の位置づけ
キリスト教約31%約24億人世界二大宗教の一角
イスラム教約26%約20億人前後世界二大宗教の一角

この規模の差は、単に信者数の多さだけを示すものではありません。
教育、移民、食文化、祝祭日、都市空間のつくり方まで、日常生活のあちこちに影響が及ぶからです。
国境をまたいで暮らす人が増えた現代では、世界二大宗教の存在感は、統計の数字以上に身近な問題になっています。

イスラム教が最も伸びる宗教とされる理由

将来予測では、イスラム教の伸びがとくに顕著です。
ムスリム人口は2010年の約16億人から2050年には約27.6億人へ増える見込みで、キリスト教徒とほぼ同数に並ぶと予測されています。
現場を取材していても、若い世代が家庭や地域の中で信仰を自然に受け継いでいく活気があり、この数字は机上の推計というより、実感に近いものでした。

増加の主因は布教の勢いではなく人口動態です。
ムスリムの合計特殊出生率は3.1で、キリスト教徒の2.7を上回っています。
さらに信者に若年層が多いため、次の世代が厚くなりやすい構造です。
つまり、宗教の拡大を考えるときは教義の広がりだけでなく、家族形成や年齢分布を見る必要があるのです。

日本における両宗教の位置づけ

日本では、キリスト教もイスラム教も信者数としては少数派です。
ただし、遠い世界の宗教という感覚は弱まりつつあります。
筆者が日本国内で礼拝スペースやハラール対応の現場を取材した際には、商業施設や教育現場の中で少しずつ受け入れの仕組みが整い、日常の接点が確実に広がっていると感じました。

この変化は、宗教が特定の地域の話ではなく、生活圏の中に入り込んでいることを示しています。
在日ムスリムの増加やキリスト教系の教育・文化の浸透は、その代表例です。
読者にとっても、学校、職場、外食、旅行の場面で宗教が自然に関わる機会は増えています。
身近な場所で何が起きているのかに目を向けてみてください。

この記事をシェア

高橋 誠一

大学でイスラム学を専攻し、カイロ・イスタンブールへの留学経験を持つ。コーランのアラビア語原典を参照しながら、教義体系を平易な日本語で解説します。

関連記事

基礎知識

世界のムスリム人口は、2020年時点で約20億人に達し、イスラム教はキリスト教に次ぐ世界第2の宗教です。カイロやイスタンブールに留学していた頃、日本では根強かったイスラム=アラブという通念が、現地では何度もあっさり覆されました。

基礎知識

ヒジャブは、アラビア語の語根ハジャバ(覆う・隔てる・隠す)に由来する語で、現代では頭と首を覆うスカーフを指すことが多い一方、本来は「隔て」全般を含む広い概念です。コーラン24章31節と33章59節が着用の根拠とされ、

基礎知識

イスラム金融は、利子を禁じるシャリーアの規範に従って、リバーを避けながら資金のやり取りを組み立てる金融の体系です。筆者がカイロやイスタンブールでイスラム神学を学んでいた頃、最初に「利子を取らない銀行」に触れたときの驚きは今でもよく覚えています。

基礎知識

ハラルとは、アラビア語で「許されたもの」を意味し、ハラームは「禁じられたもの」を指す概念である。食の世界では単なる健康志向の表示ではなく、コーランの食物規定に基づく宗教的な線引きとして理解するのが出発点になります。