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イスラム教とユダヤ教の違い|共通点も整理

更新: 高橋 誠一
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イスラム教とユダヤ教の違い|共通点も整理

イスラム教とユダヤ教は、アブラハムを共通の祖とするアブラハムの宗教に属し、同じ唯一神を信じる厳格な一神教です。中東情勢のニュースで両宗教の名が並ぶたびに、何が同じで何が違うのか混乱しやすいのは、共通基盤が強いぶん相違点が見えにくいからでしょう。

イスラム教とユダヤ教は、アブラハムを共通の祖とするアブラハムの宗教に属し、同じ唯一神を信じる厳格な一神教です。
中東情勢のニュースで両宗教の名が並ぶたびに、何が同じで何が違うのか混乱しやすいのは、共通基盤が強いぶん相違点が見えにくいからでしょう。
実際には、預言者観、聖典、食事規定、礼拝と聖日のあり方まで信仰生活の根幹で明確に分かれており、その違いはユダヤ教(紀元前)からキリスト教、そして7世紀のイスラム教へとつながる成立の順序を踏まえると理解しやすくなります。
この記事では、同じ神を信じながら別の宗教であるという関係を軸に、両者の共通点と相違点を整理していきます。

両宗教の関係:同じ「アブラハムの宗教」という出発点

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれもアブラハムを共通の祖とする「アブラハムの宗教」に数えられます。
三宗教を別々の章として学ぶと無関係に見えますが、源流をたどると、同じ唯一神信仰から枝分かれした関係だとわかります。
世界史の教科書で分断されて見えたものが、実は一本の系譜でつながっていた、と気づく場面でもあります。

アブラハムを共通の祖とする三宗教

アブラハムは、ユダヤ教ではアブラハム、イスラム教ではイブラーヒームとして語られ、両方の文献に共通して現れる人物です。
ここに注目すると、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が偶然似ているのではなく、同じ物語資源と信仰の土台を分け合っていることが見えてきます。
三宗教はいずれも唯一で不可分の神を信じ、偶像崇拝を退ける点でも一致しています。

成立順序も理解の手がかりになります。
ユダヤ教は紀元前、キリスト教は1世紀、イスラム教は7世紀に成立しました。
この流れを押さえると、イスラム教が後から登場し、ユダヤ教の伝統を受け継ぎながら独自の教えを整えたことが分かります。
こうした時間軸を踏まえると、似ているのに同一ではない理由を整理しやすくなるでしょう。

イスラム教から見たユダヤ教=「啓典の民」

イスラム教はユダヤ教徒とキリスト教徒を、神から啓典を授かった「啓典の民」として位置づけます。
これは単なる寛容表現ではなく、同じ神からの啓示を一定程度共有しているという認識の表れです。
だからこそ、イスラム教はユダヤ教やキリスト教を、まったく無縁の外部宗教としてではなく、近い親族のような宗教として捉えてきました。

食事規定や礼拝習慣に違いはあっても、根底には同じ一神教的な世界観があります。
ハラールとコーシャはどちらも豚肉を禁じますが、細部は一致しません。
それでも共通点が生まれるのは、神の前での清浄さを重んじる姿勢が近いからで、比較すると宗教の輪郭がいっそうはっきりします。

観点ユダヤ教イスラム教
神理解唯一・不可分の神唯一・不可分の神
アブラハムの位置づけ共通の祖イブラーヒームとして共通の祖
他宗教の扱いイスラム教からは啓典の民に含まれるユダヤ教・キリスト教を啓典の民として敬意を払う
歴史的順序紀元前に成立7世紀に成立

エルサレムが共通の聖地であることも、両宗教が切れていない証拠です。
イスラム教の最大の聖地はメッカ、次いでメディナですが、エルサレムも第三の聖地として重みを持ちます。
聖地の重なりは、信仰の系譜が交差していることを静かに示しています。

なぜ同じ神を信じて別の宗教になったのか

分岐点は、神そのものよりも「誰を最後の預言者とみなすか」「どの啓典を最終的な権威とするか」にありました。
イスラム教はムハンマドを最後の預言者とし、『コーラン』を最終的な啓典と位置づけますが、ユダヤ教はモーセを中心に『タナハ』と『タルムード』を重視し、ムハンマドを預言者とは認めません。
イエスについても、イスラム教は預言者の一人として受け止めるのに対し、ユダヤ教はそうしない。
この差が、そのまま宗教の輪郭になっています。

つまり、両宗教の違いは「神が違う」からではなく、「神の言葉がどの歴史で確定したか」という理解の違いから生まれたのです。
預言の系譜をどう読むかで、同じ唯一神信仰は別々の制度や実践へと分かれていきました。
教科書では離れて見える三宗教も、アブラハムという共通の祖を手がかりにすると、源流からの連続性と分岐点の両方が見えてきます。

唯一神の捉え方:アッラーとヤハウェは同じ神か

アッラーとヤハウェは、宗教名こそ異なりますが、アブラハムの宗教の文脈ではともに唯一で不可分の創造主を指す呼び名として理解されます。
イスラム教とユダヤ教は、どちらも神を像に閉じ込めない厳格な一神教であり、呼称の違いをそのまま「別の神」と受け取ると本質を見誤ります。
実際にアラビア語で「アッラー」はイスラム教だけの固有名だと思っていたところ、アラビア語話者のキリスト教徒も同じ語で神を呼ぶと知り、言語と信仰の関係に驚かされたことがあります。
モスクに神像がなく、幾何学文様やアラベスクが空間を満たす理由も、この神観と切り離せません。

呼び名は違うが指す対象は同じ唯一神

イスラム教では神をアッラーと呼び、ユダヤ教ではヤハウェ、あるいは畏れから直接の発音を避けてハシェム(御名)と呼びます。
呼び名の背後には、それぞれの言語と共同体の歴史があるだけで、どちらも唯一・不可分で創造の源である神を指す点は共通しています。
ここで大切なのは、名称の違いよりも「唯一神をどう敬い、どう言葉にするか」という態度の違いに目を向けることです。
アブラハム、モーセ、ノアといった預言者を共有していることも、この共通基盤を支えています。

また、イスラム教はユダヤ教徒・キリスト教徒を、神から啓典を授かった啓典の民として位置づけます。
つまり、完全に別々の宗教としてではなく、同じ一神教の流れの中にある関係として捉えているわけです。
ユダヤ教が紀元前から先に成立し、そこからキリスト教を経て7世紀にイスラム教が登場したという順序を踏まえると、後者は前者の伝統を引き継ぎつつ再解釈した宗教だと見えてきます。
呼称の違いを越えて共通点を押さえると、両宗教の対話も整理しやすくなるでしょう。

両宗教に共通する偶像崇拝の禁止

イスラム教とユダヤ教に共通する最もはっきりした特徴は、神を像にして拝む偶像崇拝を厳格に禁じる点です。
神は人間の手で形にできる存在ではなく、何か具体的な像に置き換えた瞬間に、その超越性が損なわれると考えられています。
だからこそ、両宗教では礼拝の中心に神像を置かず、言葉、祈り、律法、共同体の実践を通して神に向き合います。
この厳格な一神教は、多神教や偶像を持つ宗教との際立った違いだと言えるでしょう。

この神観は、建築や装飾にもはっきり表れます。
モスクに神像が一切なく、幾何学文様やアラベスクが発達したのは、単なる美意識の問題ではありません。
像で神を表さないという姿勢そのものが、礼拝空間の造形を決めているのです。
実際にその空間に立つと、視線が一点の像に吸い寄せられるのではなく、模様の連なりと静かな反復の中で神の無限性を感じる構造になっていることに気づきます。
偶像の不在は「何もない」のではなく、むしろ神を限定しないための積極的な選択です。

神の人格性をめぐる捉え方の差

共通点が多いとはいえ、神の捉え方には差があります。
イスラム教では、神は人格的な存在であると同時に、万物の背後にある超越的な力として理解される傾向が強く、神を直接描写することも避けられます。
そのため、神を人のような姿や感情で描き切る表現には慎重で、言語もまた敬意を保つための枠組みとして機能します。
神を近づけすぎない距離感が、かえって絶対性を際立たせているのです。

ユダヤ教でも神は不可視で、像として固定されませんが、礼拝言語や律法との結びつきの中で、共同体の歴史に深く関わる神として語られます。
読者が混乱しやすいのは、「呼び名が違う=別の神」という受け取り方でしょう。
しかし、アブラハムの宗教の文脈では、同じ唯一神を異なる言語・伝統で呼んでいると整理するのが適切です。
神をどう名づけるか、どう像にしないか、そしてどう礼拝するか。
その差異をたどると、アッラーとヤハウェの問題は対立の話ではなく、唯一神信仰の表現の違いとして見えてきます。

預言者観:モーセ中心のユダヤ教、ムハンマドが最後のイスラム教

項目 要点
共有する預言者 アブラハム、モーセ、ノアをはじめ、多数の預言者が両宗教に共通する
ユダヤ教の中心 モーセはシナイ山で『トーラー』を授かった最大の預言者として位置づけられる
イスラム教の終点 ムハンマドは「最後の預言者(封印の預言者)」とされ、その後に新たな預言者は現れない
分岐点 イエスの扱いと、ムハンマドを預言者として認めるかどうかが決定的な違いになる

預言者観をたどると、ユダヤ教とイスラム教は驚くほど長い連続線でつながっています。
アブラハム、モーセ、ノアといった共通の預言者が両宗教の土台を支えており、イスラム教ではアダムからイエスまで広く預言者が認められ、『コーラン』には28人の預言者名が挙がります。
共有部分が厚いからこそ、どこで線を引くのかがそのまま宗教の輪郭になるのです。

両宗教が共有する預言者たち

アブラハム、モーセ、ノアは、ユダヤ教とイスラム教の双方で欠かせない預言者です。
イスラム教はこれにとどまらず、アダムからイエスまで多くの預言者を認め、『コーラン』には28人の預言者名が示されます。
実際、モーセという同じ人物が、ユダヤ教では律法を受け取った指導者として、イスラム教ではムーサーという預言者として敬われる点に、両宗教の強い連続性が見えてきます。

この共通性は、単なる名前の一致ではありません。
神が歴史の中で人間に導きを与えてきた、という理解そのものが共有されているからです。
だからこそ、両宗教は似た物語を持ちながらも、最終的にどの預言者をどう位置づけるかで異なる体系へ分かれていきます。
共通点を押さえると、違いがいっそう鮮明になるでしょう。

ユダヤ教における最大の預言者モーセ

ユダヤ教では、モーセが最大の預言者とされます。
シナイ山で『トーラー』を授かった存在として中心に置かれ、信仰生活も基本的にこの律法を軸に組み立てられています。
ここで大切なのは、モーセが単に「偉大だった」のではなく、共同体の生き方そのものを形づくる媒介者だという点です。

『トーラー』は、祈りや食事、祝祭や日常の規範まで、広くユダヤ教の実践を支えます。
つまりモーセを最大の預言者と見ることは、過去の人物崇拝ではなく、今も続く生活秩序の確認にほかなりません。
モーセを中心に据える発想をたどると、ユダヤ教が律法共同体として理解されてきた理由が自然に見えてきます。

ムハンマドとイエスをめぐる決定的な違い

イスラム教はムハンマドを「最後の預言者(封印の預言者)」とし、これ以降に新たな預言者は現れないと考えます。
ここがイスラム教の根幹のひとつであり、この理解を外すと、ユダヤ教との違いがなぜここまで決定的なのかが腑に落ちません。
ユダヤ教はムハンマドを預言者と認めず、そこに明確な分岐が生まれます。

イエスの扱いも対照的です。
イスラム教はイエスを偉大な預言者の一人として認めますが、救世主とはしません。
ユダヤ教はイエスを預言者とも救世主とも認めないため、預言者の系譜のどこで線を引くかが、宗教の輪郭そのものを決めていると分かります。
モーセでつながり、ムハンマドで分かれる。
この構図を押さえると、両宗教の関係はずっと立体的に見えてきます。

聖典の違い:コーランとタナハ

項目 イスラム教 ユダヤ教
根本聖典 『コーラン』 『タナハ』
補助的な伝承体系 ハディース 『タルムード』
聖典の言語 アラビア語 主にヘブライ語
特徴 原典の語りがそのまま神の言葉とされる トーラー・預言者・諸書の三部構成を持つ

『コーラン』と『タナハ』は、いずれも宗教共同体の中心にある聖典ですが、権威の置き方が異なります。
イスラム教では『コーラン』が神からムハンマドに下された啓示そのものとされ、ユダヤ教では『タナハ』がトーラー・預言者・諸書の三部から成る書物群として受け継がれてきました。
両者とも原典言語を重んじますが、その周囲にある伝承体系の役割が違うため、実践の細部まで見え方が変わってきます。

イスラム教の聖典:コーランとハディース

イスラム教の最重要聖典は『コーラン』で、ムハンマドが受けた啓示を記したものと理解されています。
ただ、礼拝や断食、日々の振る舞いのように、本文だけでは細部が読み取りにくい領域もあるため、ムハンマドの言行を記録したハディースが実践の指針として重視されます。
『コーラン』が根幹の原理だとすれば、ハディースはそれを現実の生活に落とし込む手がかりです。

翻訳本を手に取ると、「これは厳密には『コーラン』ではなく解釈である」と注記されていることが目に入ります。
あの一文には、アラビア語の原典を神の言葉そのものとして扱う厳格さがよく表れています。
意味を移し替えることはできても、原典の響きや語順まで同じにはならないからです。
だからこそ、翻訳を読む際にも原典との差を意識する姿勢が求められます。

ユダヤ教の聖典:タナハとタルムード

ユダヤ教の聖典は『タナハ』で、トーラー、預言者、諸書の三部から成ります。
トーラーはモーセ五書を指し、信仰の骨格を与える中心部分です。
ただ、ユダヤ教の宗教生活は聖書本文だけで完結せず、口伝律法を文字化した『タルムード』が、食事や安息日を含む日常の細かな実践を支える重要な位置を占めます。
書かれた本文と、そこから読み解かれる規範が結びついているのです。

『タナハ』という枠組みを知ると、旧約聖書と内容がほぼ重なることにも気づきます。
実際に両者を見比べたとき、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖典が、同じ古い物語や啓示を層のように重ねながら、それぞれ別の読み方へ分岐しているのだと実感しました。
ユダヤ教ではヘブライ語の原典が重んじられ、言葉の形そのものが信仰理解に深く結びついています。
原文を大切にする態度は、イスラム教とよく響き合います。

聖典どうしの重なりと相違

イスラム教は、ユダヤ教・キリスト教の啓典、つまり旧約・新約聖書の一部を神からの啓示として認めます。
もっとも、そこで権威の最終地点になるのは『コーラン』であり、既存の啓示を受け継ぎながらも、最終的かつ完全な啓示として位置づける点に特徴があります。
重なりはあるのに、結論が同じではない。
この構造を押さえると、三宗教の関係がずっと立体的に見えてきます。

言語の面でも、共通点と違いがくっきりしています。
『コーラン』はアラビア語原典が神の言葉そのものとされ、翻訳は解釈に近い扱いになります。
『タナハ』は主にヘブライ語で伝えられ、こちらも原典言語の重みが大きいです。
読む側としては、意味だけでなく、どの言語でその聖典が神聖視されているのかまで意識すると、宗教実践の深さが見えてきます。

食事規定の違い:ハラールとコーシャ

ハラールとコーシャは、どちらも宗教的に「食べてよいもの」を定める食事規定ですが、重なる部分と違う部分を分けて見ると混同しにくくなります。
共通点としてまず押さえたいのは豚肉の禁止で、ただしその理由づけや周辺ルールは同じではありません。
実際、ハラール対応とコーシャ対応の両方を掲げたレストランを見たとき、似ているようで別の体系なのだと腑に落ちました。

両者に共通する豚肉の禁止

ハラールはイスラム教で「許されたもの」を意味し、コーシャ(カシュルート)はユダヤ教の食事規定で「適正なもの」を指します。
呼び名は違っても、いずれも食事を単なる好みではなく信仰の実践として扱う点に特徴があり、食材の選び方そのものが宗教生活の一部になっています。
だからこそ、両者の比較では最初に「何が共通して禁じられるか」を見ると理解が早くなります。
豚肉はその代表例です。

ユダヤ教では、ひづめが割れ反芻する動物だけが可食とされるため、豚はその条件を満たさず禁じられます。
イスラム教でも豚は不浄なものとして避けられ、食卓に載せないことが信仰の境界線になります。
ここで重要なのは、単に肉の種類を制限しているのではなく、宗教が日常の選択にまで及んでいる点でしょう。
似た禁止があると知るだけでも、両者がまったく別世界の規則ではないと分かります。

コーシャ独自の『肉と乳の分離』

コーシャの特徴として際立つのが、肉と乳製品を同じ食事で組み合わせないという規定です。
チーズバーガーのように、肉と乳が一皿に同居する料理はこの考え方に反しやすく、食材の組み合わせそのものに注意が向けられます。
ムスリムの同僚との会食ではアルコールを避ける配慮が中心でしたが、ユダヤ教の知人は食事に厳格でありながら乾杯のワインは口にしていて、同じ「食の規定」でも着眼点がまったく違うと感じました。

この乳肉分離は、ハラールにはない明確な違いです。
ハラール対応では主に食材の由来や加工過程が問題になりますが、コーシャでは食材同士の組み合わせまで規律の対象になります。
店頭で「ハラール対応」と「コーシャ対応」が並んで表記されているのを見れば、両者を同じものとして扱えない理由がよく分かるはずです。
対比表にして確認すると、違いがより整理されます。

観点ハラールコーシャ(カシュルート)
豚肉禁止禁止
肉と乳の組み合わせ規定なし禁止
アルコール飲酒を禁止一般的な禁止はない。ワインは安息日や祭礼で用いられる
屠畜方法宗教上の手順が求められる宗教上の手順が求められる

アルコールの扱いという明確な違い

アルコールの扱いは、両者の差が最も見えやすい項目です。
イスラム教では飲酒が明確に禁止されるため、ハラール対応の場では飲み物選びまで気を配る必要があります。
これに対してユダヤ教には一般的なアルコール禁止はなく、ワインは安息日や祭礼で用いられます。
食べ物だけでなく、席で何を注ぎ、何を控えるかという振る舞いにも違いが現れるのです。

日常生活の場面では、この差はかなり実感しやすいでしょう。
会食で同席していても、片方は飲まない、もう片方は条件に応じてワインを口にする、といった光景が自然に並びます。
ハラールとコーシャを横並びに見ると、豚肉の禁止という共通点はあっても、乳肉分離や飲酒の扱いで体系が分かれていることが分かります。
読者が混同しやすいのは無理もありませんが、ここを押さえるだけで理解はぐっと楽になります。

礼拝と安息日:サラートとシャバット

イスラム教のサラートとユダヤ教のシャバットは、どちらも日常の時間を聖なる実践へ結びつけますが、その働き方ははっきり異なります。
前者は1日5回、メッカの方角であるキブラへ向かって行う礼拝で、生活の流れの中に祈りのリズムを刻みます。
後者は金曜日没から土曜日没まで続く安息日で、労働を離れて家庭や会堂で過ごすことに意味があります。
似ているのは「時間を聖別する」点であり、違うのはその節目が毎日の礼拝なのか、週に一度の休息なのかという点です。

イスラム教の1日5回の礼拝サラート

サラートは、イスラム教徒の日課の中心に置かれる礼拝です。
1日5回という回数は、信仰を特別な場面だけに閉じ込めず、朝から夜までの生活全体に結びつける仕組みになっています。
メッカの方角を意識して身体の向きを整える行為には、どこにいても同じ神への応答を保つという感覚があり、移動や仕事の最中でも信仰を忘れないための目印になるのです。
日本でモスクを訪れた際、礼拝の時刻が近づくと空気が切り替わるように感じられました。

金曜の昼になると、モスク周辺が急に混み合います。
ジュムアと呼ばれる集団礼拝が行われるためで、平日の礼拝とは違う社会的なまとまりが生まれる時間です。
個人の祈りであると同時に、共同体として同じ方向を向く場でもあるため、信仰が私的な内面だけで完結しないことがよく分かります。

ユダヤ教の安息日シャバット

シャバットは、金曜日没から土曜日没まで続くユダヤ教の安息日です。
この時間帯は労働を控え、火を使う行為も避け、家庭や会堂で静かに過ごします。
つまり、ただの休暇ではなく、創造の仕事から距離を取り、聖なる休息を形にする日なのです。
週の中で一定の時間を切り出して生活を組み替える点に、信仰の強い規律性が表れています。

ユダヤ教の知人から、金曜の夕方になると電子機器も使わずに過ごすと聞いたとき、シャバットは単なる休日ではないのだと実感しました。
そこで止まっているのは仕事だけではなく、日常の便利さそのものです。
そう考えると、労働禁止は不便を強いる規則ではなく、生活を神聖な休みへ切り替えるための境界線として見えてきます。

金曜と土曜:聖なる日の違い

金曜日という点だけを見ると、イスラム教にも「休みの日」があるように見えます。
ただし、金曜のジュムアはシャバットのような全面的な労働禁止を伴う安息日ではなく、合同礼拝のための特別な時間という位置づけです。
ここを混同すると、イスラム教の礼拝文化とユダヤ教の安息日文化の違いが見えにくくなります。

整理すると、サラートは毎日の礼拝であり、シャバットは週ごとの停止です。
前者は日々の行為を整え、後者は一日の使い方そのものを変えます。
金曜のモスクが人で満ちる光景と、土曜に家庭で静けさを守る光景を並べてみると、両宗教が「聖なる時間」を重視しながらも、その具体的な形をまったく別に設計していることが見えてくるでしょう。

聖地と信者の広がり:エルサレムと世界宗教・民族宗教

エルサレムは、ユダヤ教とイスラム教、そしてキリスト教に共通する聖地です。
旧市街を歩くと、三宗教の聖地が徒歩圏内に隣接しており、同じ都市のなかで異なる信仰が長く重なってきた現実を実感します。
ユダヤ教にとっては神殿の地であり、イスラム教にとってはムハンマドが昇天したとされる「聖なる岩」の地でもあります。
だからこそ、エルサレムは単なる地名ではなく、信仰の記憶そのものとして扱われてきました。

共通の聖地エルサレム

エルサレムは、共通の聖地であるという点に意味があります。
ユダヤ教とイスラム教が同じ場所をそれぞれの物語の中心に据えているため、聖地は「誰のものか」という所有の問題だけでは捉えられません。
むしろ、どの歴史を起点にその土地を読むのか、どの出来事を神聖の根拠とみなすのかが問われます。
旧市街で聖地が近接している光景は、その重なりを目に見える形で示していました。

ユダヤ教では神殿の地として重視され、イスラム教ではムハンマドが昇天したとされる場所として敬われます。
ひとつの都市に、複数の宗教がそれぞれの記憶を重ねているからこそ、エルサレムは緊張と敬意が同居する特別な場所になるのです。
共通の聖地という事実は、宗教間の違いを際立たせると同時に、歴史的な接点の深さも教えてくれます。

イスラム教固有の聖地メッカとメディナ

イスラム教には、エルサレムとは別に固有の聖地があります。
最大の聖地はメッカで、次いで預言者ムハンマドが拠点としたメディナが続き、エルサレムは第三の聖地と位置づけられます。
この順序は、イスラム教の信仰の中心がどこにあるかを示すだけでなく、巡礼や礼拝の意識がどこへ向かうのかを理解する手がかりにもなります。

イスラム圏というと中東を思い浮かべがちですが、実際にはその広がりははるかに大きいです。
信者数最大の国がインドネシアだと知ったとき、イスラム教が地域宗教ではなく世界宗教として受け止められる理由が腑に落ちました。
メッカとメディナを中心にしながら、各地のムスリムが同じ信仰を共有している。
その構図は、地理のイメージを静かに更新してくれます。

民族宗教と世界宗教という性格の違い

ユダヤ教は基本的にユダヤ人という民族に結びついた民族宗教であり、積極的な布教を行いません。
信仰が家族や共同体の記憶と深く結びついているため、教えの広がり方も、他宗教とは少し異なります。
イスラム教は民族や出自を問わず誰でも信仰できる世界宗教で、歴史的にも広く布教されてきました。
ここに、両者の社会的な性格の違いがはっきり表れます。

この「広がり方」の違いは、信者層にもそのまま反映されています。
イスラム教徒は世界に広く分布し、人口最多はインドネシアなどアジアに偏るのに対し、ユダヤ教はユダヤ人共同体を中心に維持されてきました。
信仰が民族の継承に寄り添うのか、出自を越えて広がるのか。
そこを押さえると、エルサレムが両宗教で持つ意味の違いも、より立体的に見えてきます。

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高橋 誠一

大学でイスラム学を専攻し、カイロ・イスタンブールへの留学経験を持つ。コーランのアラビア語原典を参照しながら、教義体系を平易な日本語で解説します。

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