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イエメンのイスラム|ザイド派と歴史

更新: 遠藤 理沙
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イエメンのイスラム|ザイド派と歴史

イエメンは、630年頃に預言者ムハンマド存命中のうちにイスラムが伝わった、アラビア半島でも最初期に改宗した土地の一つです。サナアの大モスクやタイーズ近郊のジャナドのモスクが早くから建立された事実は、この地が単なる現代の紛争地ではなく、宗教史の古層を抱える地域であることを示しています。

イエメンは、630年頃に預言者ムハンマド存命中のうちにイスラムが伝わった、アラビア半島でも最初期に改宗した土地の一つです。
サナアの大モスクやタイーズ近郊のジャナドのモスクが早くから建立された事実は、この地が単なる現代の紛争地ではなく、宗教史の古層を抱える地域であることを示しています。
筆者がトルコやモロッコをはじめ各地でフィールドワークを重ねるなかでも、イエメンの宗教地図は他のアラブ諸国と違う独特の厚みを持って映ってきました。

イエメンの最大の特徴は、シーア派ザイド派とスンナ派シャーフィイー派が千年単位で共存してきた二層構造にあります。
北部高地にザイド派、南部にシャーフィイー派が多く、近年の推計ではおおよそ55対45とされますが、幅のある数字として受け止めるのが妥当です。
ザイド派は最初の三代カリフを認め、隠れイマームや無謬性を否定するため、十二イマーム派とはかなり異なる性格を持ちます。

その差異こそが、ザイド派を「シーア派でありながらスンナ派に最も近い」と呼ばせる理由でしょう。
897年に始まったザイド派イマーム朝は1962年まで続き、ハドラマウトのスーフィー聖者文化やサナアの大モスク、世界最古級のコーラン写本とあわせて、イエメンには政治ニュースの裏に豊かな信仰遺産が息づいています。
現代の対立だけでイエメンを見れば、この歴史の重なりは見えてきません。

イエメンへのイスラム伝来:預言者存命中に改宗した土地

イエメンへのイスラム伝来は630年頃、預言者ムハンマドが存命中の出来事として位置づけられます。
アラビア半島の南端にあるこの土地が、イスラム最初期から信仰圏に組み込まれていた事実は、イエメンを「辺境」ではなく初期共同体の一部として見直す起点になります。
しかも受容は征服の直後にとどまらず、のちの宗教実践と地域社会の定着へつながっていきました。

630年頃の伝来と最初期モスクの建立

伝来の時期が630年頃とされるのは、ムハンマドがまだ存命だったためで、イエメンの改宗がきわめて早い段階に属するからです。
サナアの大モスクと、タイーズ近郊ジャナドのモスクが初期に建立されたと伝えられるのも、この早さを裏づける重要な手がかりでしょう。
礼拝の場がすぐ整えられたということは、イスラムが単に支配の枠組みとして入ったのではなく、日常の祈りを通じて地域に根を下ろしたことを示します。

現地を歩くと、この「早さ」は単なる年代の話ではありません。
イスラム圏のフィールドワークで繰り返し感じてきたのは、イエメンの人々が自分たちを遠い周縁ではなく、古くから信仰の核を担ってきた土地として語ることでした。
モスクの建立史は、その自己理解を支える歴史的な背骨だといえるでしょう。

南アラビアの古代文明とイスラム以前の宗教状況

イエメンでは、イスラム以前からサバア(シバ)に代表される高度な古代文明が栄え、ユダヤ教やキリスト教も浸透していました。
つまり、イスラムは無人の白地に入ってきたのではなく、複数の信仰と政治文化が重なった土壌の上で受け入れられたのです。
この前史を押さえると、のちに宗派的な多様性が育つ遠い前提も見えてきます。

古代南アラビアの遺構の前に立つと、その厚みは机上の説明以上に伝わってきます。
文明の断層が何層にも折り重なっていて、イスラム以前の宗教史がそのまま地層のように残っている。
そうした場所では、イエメンの宗教史を一つの時代だけで切り取ることができないと実感します。
ここは歴史が薄い土地ではないのです。

「信仰と英知はイエメンより」という伝承的評価

イエメンには、「信仰と英知はイエメンより」と評価する伝承が伝わっています。
こうした言葉は、イエメン人の信仰心が早くから称えられてきたことを示し、単なる征服地ではなく、信仰の中心地の一つとしてイエメンを位置づけてきました。
歴史の事実と伝承の評価が重なり合うことで、イエメンは初期イスラムの記憶の中で特別な輪郭を持つようになります。

ただし、最初期の細かな改宗経緯や伝道者については史料ごとに記述が異なります。
断定できるのは、あくまで預言者ムハンマド存命期にイスラムが伝来したという大枠です。
細部は留保をつけて読むべきですが、その慎重さこそが、この土地の初期史を正確にたどるうえで欠かせない姿勢になります。

ザイド派とシャーフィイー派:千年続く二大潮流の共存

イエメンの宗派構成は、シーア派ザイド派とスンナ派シャーフィイー派という二つの潮流が、千年単位で並び立ってきたところに特徴があります。
近年の推計ではシャーフィイー派が約55%、ザイド派が約45%とされますが、その数字は確定値ではなく、機関ごとに幅があると見ておくべきです。
筆者が複数のイスラム圏を比較してきた経験でも、一つの国の中でスンナ派とシーア派がこれほど長く拮抗しながら共存してきた例は珍しく、イエメンの宗派地図には独自の厚みがあります。

北部高地のザイド派と南部のシャーフィイー派

ザイド派は北部・北西部の高地に、シャーフィイー派は南部・南東部の低地や海岸部に多く分布してきました。
高地のサナア周辺やサアダ方面ではザイド派の歴史が深く、南へ下るほど海上交易と結びついたシャーフィイー派の色合いが濃くなります。
実地でこの国を歩くと、地勢が変わるにつれて人々の語り口や礼拝の作法までゆるやかに変わっていくのが分かり、信仰文化が地理に形づくられてきたことを実感します。

この棲み分けは、単なる宗派の分布ではありません。
高地は部族社会と結びついた政治秩序を育み、低地や沿岸部は交易・移住・学問交流の回路を通じて外部とつながってきました。
だからこそ、同じイエメンでも社会のリズムは一枚岩ではなく、宗派と生活世界が重なり合いながら地域差を生んできたのです。

人口比の推計とその不確かさ

人口比については、近年の推計でスンナ派(主にシャーフィイー学派)が約55%、シーア派ザイド派が約45%とされます。
ただし、この数字を固定的に受け取るのは危険です。
山岳地帯と平野部、都市と農村、さらに移住の履歴が絡むため、宗派帰属を全国一律の割合に還元しにくいからです。

ここで読者に意識してほしいのは、数字そのものよりも、その揺れ方です。
ザイド派はアリーの曾孫ザイド・ブン・アリーを祖とし、最初の三代カリフを認めるため、十二イマーム派とスンナ派のように鋭く分かれきる構図ではありません。
混在地域では通婚や日常的な交流も見られ、宗派の境界は、対立線というより生活圏のグラデーションとして現れてきました。

1990年の南北統一が変えた宗派バランス

1990年の南北イエメン統一は、宗派バランスを読み解くうえで転機でした。
シャーフィイー派が大多数を占める南部が統合されたことで、それまでザイド派優位だった人口構成は大きく揺れました。
政治統合が、そのまま宗派構成の見え方を変えた事例だと考えると分かりやすいでしょう。

この変化は、単に人口比が動いたという話では終わりません。
国家の枠組みが変わると、宗派の比重も、教育、行政、婚姻、地域アイデンティティの語られ方も変わります。
イエメンでは、北=シーア、南=スンナと短く切ってしまうより、統一前後で重なり方が変化した地域社会として捉えるほうが、実態に近いのです。

ザイド派とは何か:シーア派でありながらスンナ派に近い独自性

名称 成立の起点 中心人物 主な特徴
ザイド派 740年 ザイド・ブン・アリー 第5代までのイマームを共有しつつ、その先で十二イマーム派と分岐するシーア派の一系統

ザイド派は、シーア派の中でも比較的穏健な神学と、必要とあれば権力に武装して異議を唱える姿勢を併せ持つ宗派です。
この二面性は、教義が抽象論ではなく、最初の成立史そのものと結びついている点に特色があります。
十二イマーム派と比べると、イマーム観や権威理解がずっと開いており、その違いが「スンナ派に最も近いシーア派」と呼ばれる理由にもつながります。

ザイド・ブン・アリーの蜂起と『五イマーム派』の由来

ザイド派の名は、第4代カリフ・アリーの曾孫ザイド・ブン・アリーに由来します。
ザイド・ブン・アリーは740年にウマイヤ朝へ蜂起し、敗北しましたが、その立場に忠誠を誓った人々が後にザイド派を形成しました。
ここで押さえたいのは、宗派名が単なる系譜の名札ではなく、反抗の記憶そのものを背負っていることです。
だからこそ、ザイド派では不正な支配に対して沈黙せず、武装蜂起を辞さない姿勢が教義の核に残りました。

ザイド派は『五イマーム派(ファイバー)』とも呼ばれ、第5代までのイマームを十二イマーム派と共有します。
つまり、初期の段階ではシーア派内部の共通性が大きく、その後の政治観と指導者理解の差によって分岐したわけです。
シーア派というと一枚岩に見えがちですが、実際にはどの時点で誰を正統な導き手として認めるかで、複数の系統に分かれていきます。
学術的にこの流れを学ぶと、ザイド派の「穏健さ」と「蜂起の義務」という一見矛盾した二面性が、同じ起源から生まれたことが見えてきます。

十二イマーム派との三つの違い

第一の違いは、最初の三代カリフ、すなわちアブー・バクル、ウマル、ウスマーンの正統性をザイド派が一定程度認める点です。
これはシーア派としては異例で、スンナ派との距離を大きく縮めます。
シーア派内部の緊張は、初期共同体の誰をどこまで承認するかに強く表れますが、ザイド派はその線引きを比較的柔らかくしているのです。
読者が「シーア派=イラン型」という固定観念を持っているなら、ここでいったん見直してみてください。

比較軸 ザイド派 十二イマーム派
最初の三代カリフ 一定程度認める 正統性を認めない
イマームの性質 無謬性を否定し、誤りうる人間とみる 無謬性を重視する
隠れイマーム 観念を持たない 再臨を待つ隠れイマーム観がある

第二の違いは、イマームの無謬性、すなわちイスマを否定することです。
ザイド派では、イマームも誤りうる人間であり、神秘化された絶対者ではありません。
しかも、姿を消して再臨する隠れイマームの観念も持たず、ハサンまたはフサインの子孫であれば誰でもイマームになりうるとされます。
十二イマーム派の救世主待望とは対照的で、指導者を現実の共同体の中で選び取る発想が前面に出ています。

第三の違いは、指導者の条件を比較的広く開いている点です。
血統の重みは認めつつも、特定個人への超越的な権威集中は避けるため、教義全体が柔軟です。
現地や資料を通じて、ザイド派の人々が自らを「過激ではない、理性的なシーア派」と語る場面に触れると、その自己認識が単なる印象ではないことが実感されます。
教義が、そのまま共同体の自己像に直結しているのです。

なぜ『スンナ派に最も近いシーア派』と呼ばれるのか

ザイド派が『スンナ派に最も近いシーア派』と呼ばれるのは、神学上の柔軟さだけが理由ではありません。
法学面でもシャーフィイー学派と参照関係をもち、日常の宗教実践ではスンナ派との差が比較的小さいからです。
もちろん、ザイド派がシーア派である事実は揺らぎません。
ただ、初期カリフへの態度、イマーム観、法学上の接点を並べると、対立よりも接続のほうが目につきます。
そこに、この宗派の独自性があります。

筆者が学術的にシーア派の多様性を学ぶ過程でも、ザイド派のこの距離感には強く引かれました。
蜂起の義務を重く見る一方で、教義そのものは実践に即しており、極端な神秘化を避けています。
おすすめです、と言いたくなるのは、このバランス感覚が宗派理解の入口として、シーア派内部の違いを見分ける具体例として役立つからです。
シーア派をひとまとめにせず、内部の幅を見てみましょう。
そうすると、イスラム世界の思想地図がずっと立体的に見えてきます。

ザイド派イマーム朝:897年から1962年まで続いた宗教国家

896年、北部サアダ周辺の部族指導者たちは、部族間紛争の調停者としてヤフヤー・イブン・アル=フサインを招きました。
翌897年、彼はサアダで体制を樹立し、イエメンにおけるザイド派イマーム制の起点となります。
征服ではなく招聘によって権力が立ち上がった点に、この宗教国家の独自性がよく表れています。

アル=ハーディーの招聘とサアダ建設

ヤフヤー・イブン・アル=フサインは、初代イマームとしてアル=ハーディー・イラル=ハック(『真理へ導く者』)の称号を得ました。
897年にサアダで体制を整えたことで、宗教的権威と統治が結びついた神権政治が始まります。
サアダは単なる地方拠点ではなく、以後のザイド派にとって精神的中心地になりました。

部族社会の対立を調停する役割から出発したことは、この政権の性格を理解するうえで見過ごせません。
外から軍事的に押し込むのではなく、現地の有力者が秩序の回復を求めて招いたからこそ、イマームの権威は政治支配と宗教指導の両面で受け入れられました。
筆者が中東の王朝史を追うなかで驚かされたのも、897年から1962年までという千年規模の時間が、このような始まり方をした点です。

高地を支配した神権政治とラッシード家の系譜

アル=ハーディーの子孫はラッシード家として知られ、その系譜がイマーム制の中核を担い続けました。
北部高地という地理的要害は、単純な平野支配とは違う持続力を政権にもたらします。
山岳地帯は外部勢力の一挙進出を難しくし、部族ごとの結びつきも政治秩序の一部として組み込まれやすかったのです。

このため、ザイド派イマーム制は一直線に安定した王朝ではなく、中断や王朝交代をはさみながら断続的に続きました。
それでも骨格が途切れにくかったのは、ラッシード家の宗教的正統性と、サアダを軸にした高地社会の結束が支えになったからです。
資料を読み進めると、サアダは行政中心であるだけでなく、今なお特別な意味を帯びる精神的中心地として意識されていることが見えてきます。

観点内容歴史的な意味
初代イマームアル=ハーディー・イラル=ハック宗教と統治を結びつけた起点
系譜ラッシード家正統性を長期に支えた家系
地理条件北部高地断続的支配を可能にした要害

20世紀のイエメン王国と1962年の共和革命

ザイド派イマーム制は近代に入っても姿を変えながら存続し、20世紀にはイマームを君主とするイエメン王国(ムタワッキリーヤ王国)として近代国家の形をとりました。
つまり、古い神権政治がそのまま固定されたのではなく、王国という枠組みに衣替えしながら、なおイマーム制の伝統を保持していたわけです。
長い時間の中で制度が変形しても、中心にある権威は簡単には消えませんでした。

1962年の共和革命は、北イエメン内戦の発端となり、イマーム制の終焉を告げました。
897年にサアダで始まった権力のかたちは、ここで千年単位の区切りを迎えます。
神権政治の終わりは単なる制度交代ではなく、現代イエメン政治の輪郭を決める前提にもなりました。
だからこそ、この1962年は、ザイド派イマーム朝を語るうえで外せない転換点です。

ハドラマウトのスーフィー文化:タリームと聖者の谷

ハドラマウト渓谷は、イエメン南東部にありながら北部のザイド派世界とは異なる、シャーフィイー派スンナとスーフィズムが根づいた土地です。
政治の見出しでは見えにくいものの、ここには学問、聖者崇敬、都市の景観が一体になった信仰文化が積み重なってきました。
イエメンという一つの国の中に、北と南でまったく異なる宗教的な空気がある。
その差をもっとも鮮明に示すのが、この谷です。

アフマド・アル=ムハージルの移住とバー・アラウィー教団

10世紀にアフマド・アル=ムハージルがイラクのバスラからハドラマウトへ移住したことが、バー・アラウィーの系譜の出発点になりました。
彼の子孫は預言者一族の血統を示すサイイドとして地域社会に根を下ろし、やがて12世紀のアル=ファキーフ・アル=ムカッダムのもとでバー・アラウィー教団というスーフィー教団へと形を整えます。
ここで注目したいのは、単なる移住譚では終わらない点です。
外から来た一族が土地の学問と信仰に深く入り込み、系譜と修養を結びつけることで、ハドラマウト独自の宗教的権威が生まれたからです。

365のモスクをもつ聖者の町ターリーム

ターリームはハドラマウトの学術・神学・法学の中心であり、世界でも有数のサイイド集住地として知られます。
地元では365のモスクがあると伝えられ、1日ごとに礼拝の場があるかのような密度が、この町の信仰の厚みを象徴しています。
筆者がイスラム圏の建築と美術を専門に見てきた立場からすると、アル=ムフダール・モスクの泥煉瓦尖塔には純粋に驚かされました。
高さ約46〜50mに達するその姿は、泥煉瓦という脆そうな素材で、これほどまでに垂直性を実現できるのかと教えてくれます。
インド由来の意匠を地元の素材で実現した尖塔は、信仰と技術が土地の条件のなかで磨かれた証拠でもあります。

ターリームを歩くと、モスクは単体の建築物ではなく、学びと共同体のリズムを刻む装置だとわかります。
サイイドの家系、学者の系譜、礼拝の回路が折り重なり、都市そのものが聖性を帯びる。
だからこそ、この町は単なる観光地ではなく、宗教知の集積地として読むべきでしょう。

ハドラミー商人が運んだ東南アジアへのイスラム伝播

15世紀以降、ハドラミーの商人や学者はインド洋交易の流れに乗って東南アジアへ渡りました。
インドネシアやマレーシアで見いだされるハドラマウト由来の痕跡は、イスラムが本や制度だけで広がったのではなく、人の移動、婚姻、商い、説教を通じて根づいたことを教えます。
東南アジアのモスクや信仰実践のなかにその痕跡を見つけたとき、イエメンの文化的影響が海を越えて今も生き続けていると実感しました。
ハドラマウト渓谷は閉じた谷ではなく、むしろ外へ開かれた回廊だったのです。
ここを理解すると、イエメン史が地域史にとどまらず、インド洋世界全体の宗教史へつながっていることが見えてきます。

サナアの大モスクと世界最古級コーラン写本

サナアの大モスクは、首都サナアに残る世界最古級のモスクの一つであり、イエメンにおけるイスラム史の古さを建築そのものが示しています。
ウマイヤ朝カリフ・ワリード1世の時代である705〜715年に拡張された記録が残ることからも、イスラム最初期にさかのぼる礼拝空間だったことがうかがえます。
旧サナアの中心に立つその姿は、宗教施設であると同時に、都市史そのものを語る記念碑でもあるのです。

サナアの大モスクと旧サナア

大モスクの価値は、古いという事実だけではありません。
ヒムヤル朝期のグムダン宮殿や、かつて同じ場所にあったアクスム朝キリスト教会の建材を転用して築かれたと伝えられ、イスラム以前の遺産の上にモスクが立つ構図が、地域の重層的な宗教史を目に見えるかたちで残しています。
イスラム建築を歩いて見ていくと、こうした転用は単なる再利用ではなく、過去の記憶を現在の礼拝空間へと編み込む行為だと感じられます。
文明は断絶だけでなく継承でも成り立つ、そう思わせる場所です。

旧サナアは1986年にユネスコ世界遺産に登録され、11世紀以前に建てられた100以上のモスクや数千の伝統家屋が残る歴史都市として評価されています。
その中心に大モスクがあるため、ここでは個々の建物を眺めるだけでなく、都市全体が長い宗教史の地層として読めます。
大モスクは孤立した名所ではなく、旧サナアの時間を束ねる核なのです。

1972年に発見されたサナア写本パリンプセスト

1972〜73年、大モスクの修復中に天井裏から大量の古写本・羊皮紙が見つかりました。
その中に含まれていたのが、いわゆるサナア写本です。
礼拝の場の上部に、千年以上前の文書が眠っていたという事実には、歴史の偶然が持つ重みがあります。
サナア写本の存在を初めて知ると、宗教建築が信仰の器であるだけでなく、記憶の保管庫でもあったことが鮮明になります。

この発見が注目されたのは、単に古いからではありません。
サナア写本はパリンプセスト、つまり重ね書き写本で、消された下層テキストと、標準テキストに沿う上層テキストの二層からなっています。
放射性炭素分析では7世紀、およそ578〜669年の範囲と推定され、現存最古級のコーラン写本の一つとされます。
写本そのものが、本文が固定される以前の揺らぎを今に伝える証人になっているわけです。

二層のテキストが示すコーラン本文の初期史

下層に標準本文と異なる読みが含まれている点は、コーラン本文の初期史を考えるうえで決定的です。
後世に広く共有された本文がそのまま最初から完成していたのではなく、書写と礼拝、伝承と整序の過程のなかで現在の形へ近づいていったことを示唆するからです。
ここで重要なのは、異文の存在を単なる例外として片づけないことです。
むしろ初期イスラム共同体が、聖典をどのように守り、どのように整えていったのかを考える手がかりになるでしょう。

大モスクの建材に刻まれたイスラム以前の層と、サナア写本の下層テキストは、別々の遺産でありながら同じ方向を向いています。
どちらも、イエメンのイスラム史が突然始まったのではなく、古い文明の上に重なりながら形づくられたことを教えてくれます。
建築と写本、石と羊皮紙。
その両方を通して見ると、サナアは中世都市ではなく、イスラム史の深い起点として立ち上がってきます。

現代イエメンのイスラム:ザイド派復興とフーシ運動

1962年のイマーム制崩壊後、ザイド派は政治の中心から外れた時期を経験しましたが、1990年代になると北部サアダで宗教的・政治的な復興の動きが強まります。
その流れが、現在のフーシ運動(アンサール・アッラー)の母体になったと整理すると、現代イエメンの混乱は単なる内戦ではなく、長い宗教史の上に重なった出来事だと見えてきます。
筆者が中東のニュースに触れるたびに、イエメンが「紛争」という一語で片づけられがちだと感じてきたのは、この重層性が見えにくくなるからです。

1990年代のザイド派政治復興とフーシ運動の起源

1990年代の北部サアダでは、ザイド派の教育や宗教実践を立て直そうとする動きが広がり、そこから政治的な自己主張も生まれていきました。
フーシ運動(アンサール・アッラー)は、その復興の延長線上に現れた運動として理解すると分かりやすいでしょう。
1962年にイマーム制が崩壊したあと、ザイド派は一度は周縁化されましたが、その記憶が消えたわけではなく、むしろ「自分たちの立場を取り戻す」という感覚を強める土壌になったのです。

フーシ運動はザイド派復興主義を掲げ、預言者の子孫が統治するというイマーム制の政治理論を一部再導入したと評されています。
2014年に首都サナアへ侵攻し、2015年には権力を掌握しましたが、この展開も単なる武力拡大だけでは説明しきれません。
歴史的なザイド派イマーム制の記憶が、現代政治に影を落とし続けていたからこそ、運動の自己正当化に深みが生まれたと見るべきです。
資料を追うと、ザイド派の「不正への蜂起」という教義が、形を変えながら現代の主張に響いていることが読み取れます。

サラフィー主義の台頭とザイド派・伝統スーフィズムとの緊張

20世紀後半以降、サウジアラビアの影響下でサラフィー主義が北部に進出すると、ザイド派とのあいだに緊張が生まれました。
サラフィー主義は厳格なスンナ派の潮流として、宗教実践を標準化しようとする傾向を持ちます。
その過程でサラフィー側がザイド派を批判し、ザイド派側が自らの伝統への脅威として受け止めたことが、復興運動を後押しした背景になりました。
宗派対立は理念の違いだけでなく、教育や地域社会の主導権をめぐる感覚の衝突でもあったのです。

ただし、現代イエメンの宗教地図を「スンナ対シーア」で単純化すると、実像を見失います。
フーシ運動はザイド派を掲げながらも、サナアの伝統的なザイド派学者と対立することがあり、ザイド派内部も一枚岩ではありません。
さらにハドラマウトのスーフィー伝統も、サラフィー的潮流の中で圧力を受けてきました。
伝統スーフィズムへの圧力まで視野に入れると、現代イエメンでは複数の宗教文化が同時に揺さぶられていることが分かります。

信仰の多層性が映す現代イエメンの宗教地図

千年に及ぶ宗派共存、イマーム制、スーフィー文化という歴史的遺産は、いまも現代の紛争報道の背後に息づいています。
ニュースでは戦線の移動や権力闘争ばかりが前景化しがちですが、その下には、誰が正統な共同体を代表するのか、どの宗教伝統が地域社会を支えてきたのかという長い問いが横たわっています。
筆者は資料を読むたびに、教義と政治の連続性が想像以上に長いことを実感してきました。

だからこそ、読者にはイエメンを一回で理解したつもりにならず、歴史の層を重ねて捉え直してほしいのです。
現在進行形の情勢は流動的であり、本記事の目的はあくまで歴史的背景を整理することにあります。
まずは断片的な報道の向こうにある宗教史を見てみてください。
そうすると、現代イエメンの複雑さが、少し立体的に見えてくるはずです。

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遠藤 理沙

中東・地中海地域の文明史を専門とし、イスラム圏10カ国以上のフィールドワーク経験を持つ。モスク建築や幾何学文様など、イスラム美術・文明の魅力を伝えます。

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