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モルディブのイスラム|1153年改宗の歴史と信仰

更新: 遠藤 理沙
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モルディブのイスラム|1153年改宗の歴史と信仰

モルディブは、インド洋に浮かぶ一島一リゾートの楽園として知られるイスラム国家である。国民のほぼ100%がムスリムという現在の姿は、青い海と白い砂浜のイメージだけでは捉えきれない。

モルディブは、インド洋に浮かぶ一島一リゾートの楽園として知られるイスラム国家である。
国民のほぼ100%がムスリムという現在の姿は、青い海と白い砂浜のイメージだけでは捉えきれない。
紀元前3世紀ごろに伝わった仏教の古層を抱えながら、1153年に最後の仏教王ドヴェミが改宗して以後、約815年にわたってスルターン制を続けてきた歴史が、その落差を生み出している。
マーレのモスクや珊瑚石の遺構に立つと、海に浮かぶ島々でイスラムが千年根づいたという事実が、観光地の印象とは別の深さで見えてきます。

改宗前のモルディブ:仏教王国だった千年

モルディブの改宗以前の歴史をたどると、そこには千年以上にわたる仏教王国の層が横たわっています。
仏教は紀元前3世紀ごろ、アショーカ王の時代にインドから海路で伝わったと考えられ、インド洋の交易路上という立地が、宗教と人の往来を支えました。
いまのマーレのモスク景観からは想像しにくいですが、島々にはその古い宗教文化の痕跡が今も残っています。

仏教はいつ・どこから伝わったか

モルディブに仏教が入った時期は、紀元前3世紀ごろとみられます。
背景にはアショーカ王の時代に広がった仏教伝播の流れがあり、陸路ではなく海路でインド洋を渡ってきたことが、この島嶼国家らしい特徴です。
単に「遠い島に宗教が届いた」という話ではなく、航海路そのものが文化の回廊だったと見ると、モルディブの歴史が急に立体的になります。
交易に乗って人が来れば、信仰の作法も、建築のかたちも、言葉の断片も運ばれてくるからです。
この島々が仏教王国として続いたことは、改宗が単なる宗教の切り替えではなく、長く育った秩序の上に新しい信仰が重なった出来事だったことを示しています。
改宗史を読むうえで、ここは外せません。

島々に残るストゥーパ『ハヴィッタ』と仏像

各地の島には、『ハヴィッタ』と呼ばれるストゥーパ跡や、550年頃に建てられたサンゴ石・石材の小寺院跡、さらに仏像が残ります。
赤道直下の珊瑚礁の国に、これほど体系的な仏教文化の痕跡があるのは意外に感じられるかもしれませんが、遺構はむしろその意外性を裏づける物証です。
海風に削られたサンゴ石の表面を思うと、他のインド洋沿岸地域で見たストゥーパ跡の光景が重なります。
仏教と、その後に重なったイスラムの層が同じ地面に並んで見える瞬間があるのです。
博物館で見た小さな仏像と、現在のマーレに立ち並ぶモスクの景観を見比べると、千年のあいだに宗教の地層がどれほど塗り替わったかが実感できます。
だからこそ、ハヴィッタは単なる遺跡ではなく、島社会が長く積み重ねた信仰の記憶そのものだと言えます。

ヘイエルダール調査が明かした古層

1982〜1983年、ノルウェーの探検家トール・ヘイエルダールは、未知の石像の写真を手がかりにモルディブで遺跡調査を行いました。
そこで仏像やストゥーパ、儀礼用とみられる石造の水場を確認し、改宗以前の宗教世界が確かに存在したことを広く知らしめています。
もっとも、その調査は順調な保存調査だけではありませんでした。
一部の遺跡は素人の発掘で損傷し、調査許可が下りなかった例もあるなど、古層を明らかにする作業の難しさも残しました。
さらに、この時代のモルディブは仏教一色だったと断定しきれず、ヒンドゥー的要素が混在していた可能性も指摘されます。
ただし、史料が限られる以上、確実に言えるのは一つです。
イスラム化は「無宗教の島々への布教」ではなく、「既存の高度な宗教文化の上書き」でした。
改宗の歴史的意味は、まさにその重なり方の中にあります。

1153年の改宗:仏教王スルターンへ

モルディブの宗教史で1153年は、単なる改宗年ではありません。
仏教王国がイスラムのスルターン国へと制度ごと切り替わった転換点であり、海の交易路、王権の正統性、社会の宗教秩序が一つの出来事に束ねられた年です。
最後の仏教王ドヴェミが改宗し、スルターン・ムハンマド・アルアーディルを名乗ったことで、その後の約815年が方向づけられました。

海の交易路がもたらしたイスラム

12世紀のインド洋では、アラブやペルシアの商人が交易の主役でした。
モルディブはタカラガイ、すなわち子安貝を産する戦略的な島嶼で、海上交易網の結節点として機能していました。
商人や船乗りが日常的に行き交う場所では、財貨だけでなく祈りの作法、言葉、服装、婚姻の慣行まで運ばれます。
イスラムは外から一気に押し寄せたのではなく、こうした接触の積み重ねの先に、島の社会へ深く入り込んでいったのです。

筆者が交易都市の旧港跡を訪ねたときも、商館とモスクと市場がひと続きになった配置が印象に残りました。
宗教施設は独立した聖域というより、荷の受け渡しや航海の安全祈願と結びついた生活の場だったからです。
モルディブでも同じように、海の往来が宗教を運び、宗教が交易の秩序を支える、そんな循環が長く続いていたと考えると、1153年の改宗は唐突な断絶ではなく、海上世界の現実が王権にまで届いた結果だと理解しやすくなります。

最後の仏教王ドヴェミの決断

1153年(イスラム暦548年)、最後の仏教王ドヴェミがイスラムへ改宗しました。
ドヴェミは仏教時代にはダルマヴァンタ・ラスゲファーヌとして1141年頃に仏教寺院の造営を命じた人物と同一とされ、同じ生涯の中で、仏教王としての顔と改宗後の顔が連続している点がきわめて示唆的です。
宗教の転換が抽象的な制度改革ではなく、一人の王の生涯に刻まれた選択として見えるからです。

この連続性は、改宗が「外から来た新しい宗教への乗り換え」だっただけではないことを示します。
王が寺院建立を命じた時点で、彼は旧来の宗教秩序の中心に立っていました。
その同じ王がのちにイスラムへ傾くことで、王宮の判断が島々の信仰環境を一気に組み替える力を持っていたことが浮かび上がります。
資料館でスルターン期の文書や碑文の写しを見たとき、改宗が個人の内面だけの出来事ではなく、統治の枠組みそのものを変える出来事だったと腑に落ちました。

スルターン制の始まり

改宗後、ドヴェミはスルターン・ムハンマド・アルアーディルというムスリムの称号と名を名乗りました。
ここで重要なのは、名前の変更が単なる改名ではなく、王権の正当化原理の変更だったことです。
仏教王国の王がイスラムのスルターンへと変わると、国家の中心にある権威は仏教の聖性からイスラムの秩序へ移り、法や儀礼の意味づけもそれに沿って再編されました。

このスルターン制は1968年の共和制移行まで約815年続きました。
短い改宗の決断が、王朝、社会、法のあり方を長期にわたり規定したわけです。
モルディブの改宗は、上から下へ制度が動き、その後の民衆生活まで宗教秩序が浸透していく「トップダウン型のイスラム化」を考えるうえで、きわめて分かりやすい例になります。
海から始まった交流が、最後には王権の名乗りを変え、国のかたちそのものを塗り替えたのです。

ラナマーリ伝説:海の悪霊を退けた聖者

ラナマーリ伝説は、マーレの改宗物語を象徴的に支える民間伝承です。
海の悪霊ラナマーリが毎月一人の乙女の生贄を求めたという語りと、アブー・アル=バラカートのコーラン読誦による退治が結びつき、イスラム受容を一つの劇的な出来事として記憶させてきました。
しかもこの話は、金曜モスク(フクル・ミスキー)近くの祠や墓の位置と結びつき、伝説が土地の記憶に刻まれている点でも特徴的です。

毎月の生贄を求めた海の悪霊

マーレで語られるラナマーリは、単なる怪異譚ではなく、共同体がかつて抱えていた不安を形にした存在です。
海の精霊ラナマーリが毎月一人の乙女の生贄を求め、選ばれた娘が海辺の祠に一晩置かれるという伝承は、日常の秩序がいかに脆いかを強く印象づけます。
改宗の物語にこの設定が置かれたことで、イスラム到来前の世界が「恐れを伴う旧秩序」として描かれ、変化の必然性が読者にも直感的に伝わるのです。

この種の物語では、悪霊そのもの以上に、悪霊を前にした人々の振る舞いが重要になります。
生贄を捧げ続ける慣習は、恐怖に基づく社会のあり方を示す一方で、そこに介入する新しい信仰の力を際立たせます。
実際、イスラム圏で聖者の墓廟(ジヤーラ)を訪ねたとき、史実と伝承が分かちがたく祈りの場を形づくっている光景に何度も出会いました。
ラナマーリ伝説の祠もまた、そうした場の一つとして理解すると輪郭がはっきりしてきます。

聖者アブー・アル=バラカートの登場

この伝説の転換点に置かれるのが、外来の聖者アブー・アル=バラカートです。
彼は身代わりを買って出て、一晩中コーランを読誦して過ごしたとされます。
ここで語られるのは、単なる勇敢さではありません。
聖なる章句の力が悪霊を退け、二度と現れなかったという筋立てを通じて、言葉そのものが力を持つというイスラム的な世界観が、物語の中心に据えられているのです。

この場面が改宗伝説として強い説得力を持つのは、王の目の前で出来事が起こるからでしょう。
王が目撃し、納得し、イスラムへ改宗したという流れは、個人の信仰だけでなく統治の正当性まで包み込みます。
現地の語り部がこの話を朗々と語る場に立ち会うと、伝説は昔話ではなく、今も生きた記憶として共有されていると感じられます。
祠、読誦、王の改宗が一つの連鎖として結ばれ、聞き手の感情に届く構造になっているからです。

伝説と史実のあいだ

歴史学的に見れば、ラナマーリ伝説は改宗の「なぜ」を分かりやすく説明する物語です。
字義通りの史実として扱うより、後代の社会が過去をどう意味づけたかを読むほうが筋が通ります。
悪霊の祠が現在のマーレの金曜モスク(フクル・ミスキー)付近にあったと伝わり、聖者の墓が金曜モスク向かいのメドゥ・ジヤーラーイの敷地にあるとされる点も、伝説が具体的な地名と接続されることで、記憶の実在感を獲得していることを示しています。

この結びつきは、物語が単なる空想ではなく、土地と共同体の自己理解を支える装置であることを教えてくれます。
金曜モスク(フクル・ミスキー)近くの祠という配置は、イスラム化の記憶を空間に固定し、誰もがその場所を通じて物語に触れられるようにしてきました。
ラナマーリ伝説は、改宗後の社会で繰り返し語られることでイスラムの優位を正統化してきた民俗史の資料であり、その意味で今なお読み解く価値があるのです。

イブン・バットゥータが見た14世紀のモルディブ

イブン・バットゥータが1343〜1344年にモルディブへ滞在した記録は、島のイスラム化を伝説ではなく具体的な社会像として捉え直す手がかりになります。
モロッコ出身の大旅行家が現地で見たのは、改宗神話の余韻だけではありませんでした。
法官(カーディー)としての勤務、マーレの金曜モスクに刻まれた銘文、そして島の暮らしの細部までが、ひと続きの証言として残されています。

10か月の滞在と法官職

イブン・バットゥータは1343〜1344年にモルディブへ入り、約10か月間そこにとどまりました。
旅の途中で通過する島ではなく、島の統治に関わる立場に置かれた点が、この記録を特別なものにしています。
法官(カーディー)として政府高官を務めた事実は、外来の学者が受け入れられるだけの宗教的秩序が、すでに島に根づいていたことを示します。
イスラム法、とりわけシャーフィイー派的な法実践が機能していたからこそ、この役目が成立したのでしょう。

旅行記を読み込みながら別のイスラム圏を辿ると、イブン・バットゥータの観察眼は、ただ物見遊山の旅人とは違うとわかります。
婚姻のしきたり、服装の作法、食習慣の違いまで拾い上げる記述には、制度と日常を切り分けずに見る視線がある。
モルディブの記録が具体的なのは偶然ではなく、行政の場に身を置いたからこそ、島の社会を内側から見通せたためです。

旅行記が伝える島の暮らし

彼の記録の価値は、宗教史の断片を並べるだけで終わらないところにあります。
モルディブがどのようにイスラム化したかを知るには、改宗伝承だけでは輪郭がぼやけますが、イブン・バットゥータの旅行記は、約200年後の社会がどのように動いていたかを具体的に示します。
そこでは、信仰が抽象的な理念としてではなく、結婚や衣服や食事のような生活の型として機能していたことが見えてきます。
制度が暮らしを形づくる、という順序です。

古いモスクの石碑に刻まれた銘文を実際に判読しようとすると、文字が摩耗していて思った以上に読めませんでした。
そこでは、史料は確かに存在していても、その意味は自動的には立ち上がらないのだと痛感します。
だからこそ、イブン・バットゥータのような一次史料に近い旅行記と、読み取りの難しい碑文を突き合わせる作業に重みがあるのです。
どちらか一方だけでは、島の歴史は単線的にしか見えません。

改宗者は『同郷の人』だった?

イブン・バットゥータは、改宗者アブー・アル=バラカートの名をマーレの金曜モスクで刻まれた銘文から読み取り、その人物を自分と同郷のマグリブのベルベル人だと認識したと伝えられます。
この理解が広がったことで、改宗者の出自をめぐってはモロッコ説が有力視されるようになりました。
ただし、ペルシア出身説など異説もあり、ここはなお確定していません。
名前の読み取り一つが、島の起源譚そのものを動かしてしまうところに、銘文史料の力があります。

読者にとって重要なのは、改宗が単なる伝説ではなく、実在の人物と碑文に支えられた可能性です。
モルディブのイスラム化は、民間伝承がつくる「物語」と、旅行記や銘文が支える「記録」の二層構造で理解すると、急に立体感を帯びます。
イブン・バットゥータの証言は、その接点に立っているからこそ貴重です。
古い島の歴史をたどるなら、この重なり方を見ていくのがおすすめです。

サンゴ石のモスク:海の文化が生んだ建築

フクル・ミスキー(旧金曜モスク)は、マーレに残るモルディブのイスラム建築を代表する存在で、1656年に着工し1658年に完成した国内最古級のモスクです。
1153年の改宗直後に初代スルターンが建てた古いモスクの跡地に再建されたため、ここは単なる礼拝施設ではなく、改宗の記憶そのものを引き継ぐ場所でもあります。
石でも煉瓦でもなく、島々で採れるポリテス属のサンゴ石で築かれている点に、珊瑚礁の国らしい建築の発想がはっきり表れています。

サンゴでモスクを建てる技術

モルディブのモスクを見てまず驚くのは、素材の選び方です。
各地のモスク建築を比較調査してきた立場から見ても、陸の石材に乏しい島国で、海が育てたサンゴを切り出して壁を立ち上げる発想はきわめて異質でした。
ポリテス属のサンゴ石は白っぽく、表面に細かな孔や層の気配が残り、近づくと硬質さの奥に有機的な呼吸を感じさせます。
そこに海とイスラム信仰の交差がそのまま刻まれているのです。

この建て方は、素材の不足を埋める工夫にとどまりません。
海を生業とする社会が、自分たちの暮らしの周縁にある資源を信仰空間へと転化した結果でもあります。
フクル・ミスキーが国内最古級のモスクとして残る価値は、年数の古さだけではなく、モルディブの人々が自分たちの環境に合わせてイスラム建築を根づかせた事実にあります。
サンゴ石モスク群が2008年にUNESCO世界遺産の暫定リストに登録されたのも、こうした海洋文化建築としての意味が評価されたからでしょう。

漆と木彫が彩る内部

内部に足を踏み入れると、空気は一変します。
礼拝空間は『マーヴァディカレーゲ』と呼ばれる地元の名工たちの手で、木彫と漆細工によって細密に仕上げられています。
壁面や天井の装飾は、ただ美しいだけではなく、光を柔らかく受け止めながら空間の輪郭を静かに整えていました。
漆の艶と木肌の陰影が重なると、素材の温度まで伝わってくるようです。

実際にこうした空間に立つと、信仰は抽象的な理念ではなく、土地の素材を使い切る技として形を持つのだとわかります。
サンゴ石の粗い質感の上に、木彫と漆芸が几帳面に重ねられることで、外の海と内の祈りが一つの建築に結びつくのです。
モルディブ伝統木彫の質が世界に類を見ないと評されるのは誇張ではなく、海の国が育てた工芸の強度そのものだと受け止めると理解しやすいでしょう。

ミナレット『ムンナール』と世界遺産候補

フクル・ミスキーの歴史は、1658年の完成で終わりません。
1668年、スルターン・イブラヒーム・イスカンダル1世はハッジの後、メッカ入口の様式に倣ったミナレット『ムンナール』と門を増築しました。
巡礼を経た支配者が、外から得た記憶をモルディブの建築語彙へ移し替えたと見ると、この建物は単なる地方的遺構ではなく、イスラム世界との往還を示す装置として立ち上がってきます。

ムンナールの存在は、モスクを外観だけで読み解けないことも教えてくれます。
礼拝堂、門、塔という要素が重なることで、モルディブのイスラムは海洋社会の現実と結びついた独自の姿を得ました。
2008年にサンゴ石モスク群がUNESCO世界遺産の暫定リストへ入ったのは、その複合性が海洋文化建築として顕著な普遍的価値を持つと認められたからです。
フクル・ミスキーは、その中心に立つ代表例だと言えるでしょう。

シャーフィイー派スンナ:モルディブの信仰の形

モルディブのイスラムはスンナ派であり、国民のほぼ全員が四大法学派の一つであるシャーフィイー法学派に属します。
法学派(マズハブ)は、礼拝や断食、婚姻の細部をどう運用するかを定める解釈の流儀であり、信仰が日常の所作にまで及ぶ仕組みだと考えると分かりやすいでしょう。
だからこそ、モルディブの宗教文化を読むうえでは、教義の大枠だけでなく、その土地でどう実践されてきたかを見る必要があります。

四大法学派の一つシャーフィイー派

シャーフィイー法学派は、8〜9世紀の法学者シャーフィーを名祖とし、スンナ派四大法学派の中でも法源の整理に優れた流派として広がりました。
モルディブでこの学派がほぼ全面的に受け入れられた背景には、イスラムが単なる信条ではなく、共同体を整える実践規範として定着した事情があります。
日々の礼拝の手順から断食、婚姻の扱いまでが共有されることで、島しょ社会に一貫した宗教秩序が生まれたのです。

法学派の違いは、抽象的な理論差に見えて、実際には暮らしの細部を左右します。
どの派に属するかで、礼拝の姿勢や儀礼の解釈が変わるからです。
モルディブのように国民のほぼ全員が同じ法学派に属する社会では、その共通性が社会全体の作法として働きます。
これは宗教が個人の内面だけでなく、共同体の時間割を形づくることを示しています。

なぜインド洋世界はシャーフィイー派なのか

シャーフィイー派が東南アジア・東アフリカ・インド洋沿岸で主流になったのは、思想の優劣というより、交易圏の結びつきが強かったからです。
海上交通で人、物、学者、商人が往来するなかで、同じ法学派を共有することは、遠隔地同士でも礼拝や契約の感覚を揃える便利な基盤になりました。
モルディブがこのインド洋世界に深く組み込まれていた以上、同じ主流派を受け入れたのは自然な流れだったと言えます。

筆者がインド洋沿岸の複数地域でシャーフィイー派の礼拝に同席したとき、場所が変わっても作法の骨格が驚くほど共通していることに気づきました。
海をまたぐ交易圏では、商いの規範と信仰の規範が切り離されにくい。
共通の法学派文化圏が、遠い島々を一つの宗教的空間として結びつけていたのです。
ここに、モルディブの宗教史をインド洋史の中で読む意味があります。

民間信仰とスーフィズムの名残

旧金曜モスクは、スーフィー的伝統も帯びたスンナ派モスクとされ、聖者廟(ジヤーラ)への崇敬も信仰の中に溶け込んできました。
ラナマーリ伝説で聖者が悪霊を退ける物語は、こうした聖者崇敬の延長線上に置くと理解しやすいでしょう。
正統教義だけでは説明しきれない祈りの厚みが、モルディブの宗教景観には残っています。

聖者廟に花や供物を捧げる人々の姿を目にすると、教義としてのスンナと、土地に根づいた感覚が同じ場で生きていることが実感されます。
改宗以前の民間信仰の名残は呪術的慣習などの形で長く残ったとされ、そこでは古い土地神的な感覚がイスラム的な祈願と明確には切り離されていませんでした。
モルディブのイスラムは画一的な「国教」ではなく、シャーフィイー派の規範とスーフィズム、民間信仰の残響が重なり合ってできた層の厚い信仰体系なのです。

現代モルディブとイスラム:『100%ムスリムの国』の今

現代モルディブでは、イスラムが国教であるだけでなく、市民権そのものがスンナ派ムスリムであることと結びついています。
そのため、法の建て付けと社会規範が宗教と深く重なり、外から見ると「国全体がイスラムの秩序で動いている」と感じやすい国です。
学校教育でもイスラム科目は必修で、信仰が家庭内の習慣にとどまらず、公教育を通じて次世代へ受け継がれる仕組みが整えられています。

憲法が定める『国民=ムスリム』

モルディブの特徴は、宗教と国民資格が切り離されていない点にあります。
憲法は市民がスンナ派ムスリムであることを要件とし、結果として法的には国民100%がムスリムという、きわめて珍しい構造になっています。
ここで大切なのは、これは単なる信仰の多数派という話ではなく、国家が市民の範囲を宗教的帰属とともに定義しているということです。
だからこそ、法・公共政策もイスラムの原則を反映しやすく、社会の前提そのものが宗教実践とつながっているのです。

学校教育の仕組みも、その考え方を支えています。
イスラム科目は必修で、政府が教師の給与を負担し、イスラム問題省が学校でのイスラム教育を所管します。
憲法が教育に『イスラムへの服従を育み』『イスラムへの愛を植えつける』べきだと定めているのは、教科として教えるだけでは足りず、価値観の形成まで教育の役割に含めているからでしょう。
信仰が個人の選択にとどまらず、制度として継承される国だと理解すると、モルディブ社会の輪郭が見えやすくなります。

ラマダーンと暮らしのリズム

ラマダーンになると、モルディブの生活は一日の時間割から変わります。
日の出から日没まで飲食と喫煙を断ち、夜にイフタール(断食明けの食事)を取るため、街には昼と夜でまったく違う顔が生まれます。
筆者がムスリム社会でラマダーンを過ごしたときも、静けさが増すのに人の熱量は下がらず、むしろ夕方に向かって空気が少しずつ張りつめていく感覚がありました。
モルディブの地元島でも、官公庁や商店の営業時間が短くなるのは、社会全体が断食のリズムに合わせて呼吸しているからです。

この時期に旅行するなら、時間の感覚を現地に寄せてみてください。
昼に思ったように店が開いていなくても、それは不便というより、宗教行為を中心に日常が再編されている結果です。
食事や休憩の予定を少し夜寄りに組み、静かな昼とにぎやかな夜の落差を観察すると、モルディブの宗教文化が生活の隅々まで染み込んでいることが実感できるでしょう。
ラマダーンをただの「断食月」と見るより、共同体の呼吸が整う季節として受け止めると理解が深まります。

リゾートと地元島:旅行者が知るべきすみ分け

モルディブの観光は、「一島一リゾート」の方針によって、リゾート島と人が住む地元島がはっきり分かれています。
リゾート島では飲酒や水着が認められますが、地元島ではアルコールが禁止され、肌の露出を控える服装が求められます。
これは宗教をめぐる緊張ではなく、観光と日常生活を両立させるためのすみ分けだと考えると分かりやすいでしょう。
旅行者は、この境界を知っているだけで、現地の信仰に対する敬意の示し方が変わります。

観光地と生活圏が分かれている国を訪ねると、こちらの「自由」は相手の暮らしの上に成り立っているのだと気づかされます。
地元島では、リゾートで許される振る舞いをそのまま持ち込まないことが基本です。
服装を少し整え、飲酒や露出に関する感覚を切り替えるだけで、滞在はずっと滑らかになります。
おすすめです。
現地の規範に合わせることは我慢ではなく、信仰と暮らしが重なる土地を歩くための最低限の礼儀なのです。

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遠藤 理沙

中東・地中海地域の文明史を専門とし、イスラム圏10カ国以上のフィールドワーク経験を持つ。モスク建築や幾何学文様など、イスラム美術・文明の魅力を伝えます。

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