モロッコのイスラム文化と歴史を読み解く
モロッコのイスラム文化と歴史を読み解く
モロッコのイスラムは、マグリブ(西方イスラム)という枠組みでこそ、その姿がはっきり見えてきます。中東アラブ世界の延長ではなく、ベルベル人(アマズィグ)の社会の上にアラブのイスラムが重なり、スンニ派マリキ学派を軸にスーフィズムや聖者信仰が根づいた独自の宗教文化だといえるでしょう。
モロッコのイスラムは、マグリブ(西方イスラム)という枠組みでこそ、その姿がはっきり見えてきます。
中東アラブ世界の延長ではなく、ベルベル人(アマズィグ)の社会の上にアラブのイスラムが重なり、スンニ派マリキ学派を軸にスーフィズムや聖者信仰が根づいた独自の宗教文化だといえるでしょう。
786年のイドリース朝に始まり、フェズ、マラケシュ、カラウィーイーン大学、そしてムーレイ・イドリース廟へと続く王朝と都市の連なりは、そのまま文化遺産の地図です。
道に迷いながらフェズのメディナでカラウィーイーン大学の中庭をのぞいたとき、筆者には中世がそのまま続いているように感じられました。
ムラービト朝のマラケシュ、マリーン朝のマドラサ建築、アラウィー朝へ受け継がれる国王の宗教的権威までたどると、建築や装飾、食文化がどの時代に育ったのかが一本の流れで見えてきます。
クトゥビーヤ・モスクのミナレット、ゼリージュ装飾、タジンやハリラは、ただの名物ではなく、歴史の層を今に伝える手がかりです。
国王がアミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)を名乗り、ザーウィヤや聖者廟が人々の信仰を支えてきた構造を押さえると、モロッコのイスラムは教科書的な五行だけでは語れないとわかります。
ハラール食、ラマダン、金曜礼拝までを地続きに見ていくと、この国の信仰は暮らしそのものだと実感できるはずです。
マグリブの西端に育ったイスラム ― モロッコの位置づけ
モロッコのイスラムは、中東アラブ世界の延長としてではなく、マグリブという西方の地で形づくられた独自の宗教文化として見ると輪郭がはっきりします。
ジブラルタル海峡をはさんでアンダルシアと向き合う国土は、地中海西部とサハラ手前の交差点でもあり、宗教実践も歴史の積み重ねもその位置取りを反映してきました。
現地を歩くと、カイロやイスタンブールで見慣れた礼拝の風景とは少し違い、聖者廟やザーウィヤへの向き合い方にも土地の手触りが残っているのがわかります。
『マグリブ=日の没する地』という呼び名
『マグリブ』はアラビア語で『日の没する地』、つまり西方を意味し、エジプト以西の北アフリカを指します。
モロッコはその最西端に位置するため、メッカやバグダードからの距離感も含めて、中東の政治的中心にそのまま従属しないイスラム圏として発展しました。
ここで見落とせないのは、イスラムが同じ宗教であっても、どの土地で根づいたかによって重心が変わることです。
モロッコでは、その「西方」という地理が、信仰のあり方そのものを静かに規定してきました。
そのためモロッコの宗教文化を理解するには、教義だけでなく、どの方向に開かれた社会だったのかを押さえる必要があります。
アンダルシアとの近さは単なる地図上の話ではなく、人、学問、職人技が行き来する回廊をつくり、モロッコを地中海世界の西端とサハラ交易圏の接点へと押し上げました。
中東一辺倒では説明しきれない独自性は、まさにこの位置から生まれたのです。
国教はスンニ派マリキ学派
現代モロッコの国教はスンニ派の中でもマリキ学派で、国民のほぼ全員がムスリムです。
マリキ学派は四大法学派の一つで、北アフリカから西アフリカに広く浸透してきました。
法学派は単なる理論の違いではなく、礼拝の細部、日常の判断、共同体の秩序を支える実務の土台です。
モロッコでは、その土台が社会全体に深く染み込んでいると考えると理解しやすいでしょう。
取材で街を歩くと、同じスンニ派でも、カイロやイスタンブールで感じる空気と少し違う。
礼拝の所作そのものより、聖者廟やザーウィヤをどう扱うかに、土地の宗教感覚が表れます。
筆者はそこで、マリキ学派が「教義の名札」ではなく、生活の呼吸そのものになっているのを実感しました。
ハラール食、金曜礼拝、ラマダンの食卓まで、宗教と暮らしが分かれにくいのです。
| 項目 | モロッコ | 中東の主要都市圏 |
|---|---|---|
| 国教・主流 | スンニ派マリキ学派 | スンニ派だが法学派構成は多様 |
| 宗教実践の重心 | 聖者廟やザーウィヤも日常に近い | 大モスク中心の印象が強い |
| 地域的背景 | マグリブ、西方イスラム | 東方イスラムの中心圏 |
ベルベル人とアラブ人が混じり合う社会
人口の約3分の1がベルベル人(アマズィグ)またはその混血と推定され、残りはアラブ系です。
ただし、この区分は単純な二分法ではありません。
イスラムはアラブが持ち込んだものですが、それを受け入れ、各王朝の担い手となったのはベルベル人でした。
つまりモロッコ社会の基層には、言語や出自の違いを越えて混じり合ってきた歴史があり、その重なりが王朝史にも日常にも刻まれています。
取材時にまず目を引いたのは、ベルベル語(アマズィグ語)の看板や挨拶でした。
アラビア語一色だと思っていた景色の中に、別の言語が自然に並んでいる。
そこには、単に少数派が残っているという以上の意味があります。
モロッコのイスラムは、アラブ的な導入とベルベル的な担い手、そしてアンダルシアとの往還が折り重なってできたものであり、その多層性こそが「西方イスラム」の個性を支えているのです。
王朝で読むモロッコ・イスラム史 ― イドリース朝から現代まで
モロッコのイスラム史は、単なる王朝の入れ替わりではなく、マグリブという西方イスラム世界がどのように自立してきたかを示す流れでもあります。
788年のイドリース朝に始まり、フェズ、マラケシュ、そして再びフェズへと都が移るたびに、宗教の権威、交易の結節点、王権の正統性が重なり合っていきました。
現在のアラウィー朝にまで続く系譜をたどると、モロッコでは歴史そのものが王制の土台になっていることが見えてきます。
イドリース朝とフェズの誕生
788年、亡命アラブ人イドリース1世がイスラム化したベルベル人の支持を得てイドリース朝を建国しました。
アッバース朝中央の権力闘争から離れた彼の立場は、遠心的なマグリブ世界で新しい統治の中心を必要としており、その答えがフェズの建設でした。
モロッコ最初の本格的なイスラム王朝として、この王朝は後世に「建国の祖」のような記憶を残し、王権が外来の征服だけでなく、土地に根づく信仰と連合の上に成り立つことを示したのです。
フェズは、のちに学問と宗教の都として伸びていきますが、その原点はこの段階です。
城壁や旧市街の層を歩くと、王朝の始まりが都市の骨格に刻まれていることがわかります。
筆者も各都市の城門や城壁を歩きながら、「この城壁はムワッヒド朝、この門はマリーン朝」と建造年代を読み解く瞬間に、歴史が地図ではなく足裏で立ち上がる感覚を覚えました。
フェズはまさに、その最初の起点でした。
ムラービト朝・ムワッヒド朝とマラケシュの繁栄
11世紀後半になると、サハラ縁辺の厳格なスンニ派改革運動からムラービト朝が台頭し、1056年以降にマラケシュを新都としました。
ここで重要なのは、彼らが単に都市を移したのではなく、交易・軍事・宗教改革を束ねる拠点としてマラケシュを選んだことです。
砂漠交易の結節点に都を置くことで、王朝は財と人の流れを握り、都市そのものを権力の装置へ変えていきました。
続くムワッヒド朝はベルベル部族から興り、東はリビアに及ぶマグリブ最大版図を築きました。
クトゥビーヤ・モスクに象徴される都市景観は、この時代に王権の広がりと宗教理念が一体化していたことを今に伝えます。
ただし、1212年のラス・ナバス・デ・トローサの戦いで敗れると、アンダルシアの大半を失い、版図の広さがそのまま安定を意味しないことも露わになりました。
マラケシュの繁栄は栄光であると同時に、帝国の限界を示す記憶でもあります。
マリーン朝からアラウィー朝へ
1248年にフェズを都として自立したマリーン朝は、1269年にムワッヒド朝を滅ぼし、学問とマドラサ建築の黄金期を築きました。
ブー・イナニア・マドラサのような学びの空間が整えられ、装飾と教育が切り離されなかった点に、この王朝の個性があります。
14世紀にタンジールで生まれた大旅行家イブン・バットゥータがこの王朝の人物であることも、マリーン朝のモロッコが外の世界と強くつながっていた証拠でしょう。
その後、サアド朝を経て、17世紀以降は預言者ムハンマドの子孫を称するアラウィー朝が成立し、現在まで続く現王朝となりました。
メクネスやフェズの王宮・廟の前では、ガイドが現国王を「預言者の子孫」と誇らしげに語る場面があり、王朝史が過去の年表ではなく現在の権威として息づいていると実感できます。
フランス・スペインによる保護領時代を経て1956年に独立を回復した流れまで見ると、王朝の系譜は近代国家の成立と断絶せずにつながっているのです。
フェズとマラケシュ ― 二つの都が体現する文化
フェズとマラケシュは、モロッコの歴史を「学問の都」と「王朝の都」という対照で見せる二つの代表的な都市です。
フェズではフェズ・エル・バリの迷宮のような路地とカラウィーイーン大学が、都市そのものを知の器として形づくってきました。
これに対してマラケシュは、メディナとスークの熱気を背景に、赤い城塞都市らしい政治と交易の華やかさを今に伝えています。
どちらも世界遺産登録によってその価値が認められていますが、魅力の核は静かな保存ではなく、暮らしの中で歴史が息づいている点にあります。
迷宮都市フェズと学問の都
フェズ・エル・バリは9世紀に形成された旧市街で、極端に細い道が網の目のように入り組み、車が入れない徒歩の街として中世の都市構造をそのまま残しています。
職人街、なめし革染め、モスクが密集する景観は、単なる観光名所ではなく、生活と信仰と仕事が一続きになった都市の記憶です。
実際に歩くと、曲がるたびに景色が変わり、地図より人の勘が頼りになる感覚がある。
筆者もここで道に迷い、地元の子どもに案内されてようやく目的のマドラサに辿り着きましたが、その寄り道こそが、この街の魅力をいちばんよく語っていたように思います。
カラウィーイーン大学は、フェズに859年に創設された学問所で、ファーティマ・アル=フィフリーが相続財産で建てたモスクを起源とします。
ユネスコとギネス世界記録が現存する世界最古の継続運営の教育機関と認定しており、神学、法学、天文学、医学が教えられた中世イスラム学問の中心地でした。
つまりここでは、礼拝の場と知の場が切り分けられていなかったのです。
都市の奥深くに学びが沈殿しているからこそ、フェズは「歩けば歴史に触れる街」ではなく、「歩く行為そのものが歴史を呼び出す街」になっています。
| 項目 | フェズ・エル・バリ | カラウィーイーン大学 |
|---|---|---|
| 成立時期 | 9世紀に形成 | 859年に創設 |
| 性格 | 迷宮状の旧市街 | モスク兼学問所に由来する教育機関 |
| 特徴 | 徒歩中心で職人街が密集 | 神学・法学・天文学・医学を教授 |
| 現在の位置づけ | 世界遺産登録された歴史都市 | ユネスコとギネス世界記録が認定 |
赤い城塞都市マラケシュ
マラケシュは赤い城塞都市と呼ばれ、ムラービト朝の都として商業と経済の中心に発展しました。
フェズが宗教と学問の重みを感じさせるのに対し、こちらは広場ジャマ・エル・フナとスークの喧噪が街の鼓動になっています。
日没とともに屋台と語り部が湧き出す光景を取材したとき、静謐さが支配するフェズとの落差に圧倒されました。
ヤシ並木とアトラス山脈を背景にした景観まで含めて、ここでは王朝の華やかさが都市の骨格そのものになっているのです。
マラケシュのメディナは、迷路のような路地を持ちながらも、その中心に市場と広場の開放感を抱えています。
スークは物を売る場所であると同時に、人が情報を交換し、旅人が街の気配をつかむ場所でもある。
フェズでは知の蓄積が建物の奥へ沈み込みますが、マラケシュでは人の声と匂いが表へ噴き上がる。
こうした違いがあるからこそ、両都市を並べると、モロッコの都市文化がひとつの型では語れないことがよくわかります。
アンダルシアから渡った職人たち
両都市の装飾が見事なのは、レコンキスタでイベリア半島を追われ、モロッコに渡ったアンダルシアの職人たちの技に多くを負っています。
彼らが持ち込んだ細密なゼリージュや漆喰彫刻は、モスクやマドラサの壁面を単なる構造物から、意味を読み解く表現へと変えました。
幾何学文様の反復、光と影の移ろい、壁に刻まれた文様の密度は、宗教建築に知性と気品を与える装置だったのです。
この交流が示すのは、フェズとマラケシュがそれぞれ別々に発展したのではなく、地中海世界の移動と記憶を受け止めながら成熟したという事実です。
アラブ・アンダルシア様式の精華は、異郷に移った職人たちの技術が新しい土地で再結晶した結果でした。
だからこそ、両都市の壁面を見ていると、装飾は飾りではなく歴史の証言だと感じられます。
歩いて眺めて、影まで見てみてください。
そこに、都市の記憶が残っています。
モスクとマドラサ ― 西方イスラム建築の精華
クトゥビーヤ・モスクからハッサン2世モスクまでをたどると、モロッコのモスク建築は同じイスラムの枠組みの中で、時代ごとの技術と都市の気配を映し分けてきたことがわかります。
四角いミナレットの伝統はムワッヒド朝の時代に形を整え、近代には大西洋に面した巨大モスクの姿へと更新されました。
そこに重なるのが、ゼリージュやアラベスク、カリグラフィーがつくる壁面の密度です。
視覚の豊かさそのものが、信仰空間の品格になっているのです。
ミナレットとモスクのかたち
マラケシュのクトゥビーヤ・モスクは、高さ約77メートルのミナレットをそびえさせ、1184〜1199年にムワッヒド朝下で建設されました。
四角い塔身はマグリブ=アンダルシア様式の典型で、セビリアのヒラルダ塔とも様式を共有します。
礼拝の場を示す塔でありながら、都市景観のしるしとしても機能するため、「西方イスラムのモスクのかたち」を一目で伝える存在になっているのです。
近現代の代表例としては、カサブランカのハッサン2世モスクが際立ちます。
1986〜1993年に建設され、ミナレットは約210メートルに達します。
大西洋に張り出した立地でその高さを仰いだとき、潮風の湿り気と巨大な塔身がぶつかり合い、伝統様式が現代技術で再解釈される瞬間を見た思いがしました。
上部を飾るゼリージュ技法の緑のタイルも、古い文様をそのまま写すのではなく、現代モロッコのイスラム建築がどこまで大きくなりうるかを語っています。
ゼリージュとアラベスクの幾何学
モロッコ建築の真骨頂は、色彩豊かな幾何学装飾にあります。
手割りのタイルを組むゼリージュは、単なる装飾ではなく、光を受けるたびに壁面の印象を変える仕掛けです。
そこに植物文様を連続させるアラベスクと、聖句を意匠化したカリグラフィーが重なり、面のすみずみまで意味が張り巡らされます。
偶像を描かないイスラム美術では、形を写す代わりに、秩序・反復・リズムで美を示してきたわけです。
この三要素が壁を埋め尽くすのは、空白を避けるためではありません。
むしろ、視線が一点に固定されず、繰り返しの中で精神を整えるように設計されているからです。
幾何学は宇宙の秩序を、アラベスクは成長し続ける生命を、カリグラフィーは言葉そのものの格を示します。
モロッコのモスクやマドラサを歩くと、装飾が「飾り」ではなく祈りの構造であることが、自然に伝わってきます。
学びの空間マドラサ
マドラサは、学びと装飾が融合した空間です。
フェズのブー・イナニア・マドラサは、マリーン朝のアブー・イナーンが1350〜1357年頃に建設した学院で、漆喰・木彫・タイルが中庭と壁面を埋めます。
中庭に立って見上げると、一切の絵画なしにこれほど豊かな表現が成り立つのかと息を呑みました。
学問の場がそのまま美の器になる構成は、イスラム圏の教育施設を理解するうえで示唆に富みます。
旅行家イブン・バットゥータも驚嘆したと伝わるのは、その完成度が単なる学校の域を超えていたからでしょう。
マラケシュのベン・ユーセフ・マドラサは1565年に建てられ、最盛期には約900人が学んだ北アフリカ最大級の学院でした。
ブー・イナニア・マドラサが細密な装飾の凝縮だとすれば、こちらは学僧たちの生活を受け止める規模の力が印象的です。
ブー・イナニアとベン・ユーセフを見比べると、マドラサは知識を伝えるだけでなく、学ぶ場そのものを尊い空間へと変える装置だったことが見えてきます。
ここに、モロッコ建築が持つ教育と美の結びつきがあります。
信仰のかたち ― マリキ学派・スーフィズム・聖者信仰
モロッコのイスラムでは、スンニ派マリキ学派という正統の枠組みが土台になりながら、スーフィズムと聖者信仰が日常の実践として息づいています。
国王がアミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)を名乗るのも、その信仰秩序をまとめる役割を担ってきたからです。
教科書的な一神教のイメージだけでは捉えきれない、地域社会に根づいた信仰のかたちがここにあります。
国王が担う『信徒の長』という役割
アラウィー朝の国王はアミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)の称号を保持し、政治的元首であると同時に信仰の擁護者でもあります。
預言者の子孫を称する王が宗教的権威を一身に担う構造は、権力と信仰を対立させるのではなく、同じ秩序の中で結びつけてきました。
そのためモロッコでは、王権が宗教の上に立つというより、宗教的共同体のまとまりを支える中心として理解されやすいのです。
取材でこの構造を考えるとき、制度の説明だけでは見えてこない重みがあります。
国王の称号は単なる儀礼ではなく、地方の宗教勢力や聖者崇敬をひとつの国家的秩序の中に収める基準として働いてきました。
モロッコのイスラムが急激に分裂しにくかった背景には、こうした権威の集中と調停の仕組みがあると見てよいでしょう。
スーフィズムとザーウィヤの伝統
モロッコのイスラムを特徴づけるのが、スーフィズム(イスラム神秘主義)の濃さです。
スーフィー教団の拠点であるザーウィヤ(修道所)は各地に置かれ、祈りの場であると同時に、学びや人のつながりを支える場にもなってきました。
教義を一枚の理論で整えるというより、身体を使った実践の積み重ねで信仰を育てるところに、モロッコらしさがあります。
筆者がザーウィヤを訪ねたとき印象に残ったのは、参詣者が壁に手を当てて祈る姿でした。
中東の都市部で目にする整ったモスクの風景とは少し違い、そこには土地の記憶が染み込んだような温度がありました。
ザーウィヤは歴史的に、王朝が地方の宗教勢力を統合し管理する装置としても機能してきました。
だからこそ、単なる信仰施設ではなく、共同体を束ねる社会的な結節点でもあるのです。
聖者廟とマウスィム
マラブー(聖者)への崇敬と聖者廟への参詣は、モロッコの日常に深く根づいています。
代表例が、建国の祖イドリース1世を祀るムーレイ・イドリース廟です。
人々は願掛けや祈りのためにそこを訪れ、聖者との距離を縮めるようにして信仰を確かめます。
厳格な一神教の教科書像から見ると不思議に映るかもしれませんが、現地ではそれがごく自然な「生きた信仰」として受け止められているのです。
ある地方のマウスィム(聖者祭)に居合わせたときも、その感覚ははっきりしました。
祈りの声のそばで露店が並び、音楽が流れ、人の往来が絶えない。
宗教と市場と社交が切り分けられずに同じ空間で重なっていました。
マウスィムは聖者を記念する催しであると同時に、地域共同体の季節を告げる祝祭でもあります。
スンニ派マリキ学派の枠の中で、スーフィズムと聖者信仰が排除されずに共存していることこそ、モロッコ宗教文化の核心だと言えるでしょう。
暮らしの中のイスラム ― 食・断食・祝祭
モロッコの暮らしでは、イスラムの戒律が食卓と時間の使い方を静かに組み替えています。
豚肉とアルコールを避けるハラールの枠組みは、羊・牛・鶏・魚を中心にした献立を生み、タジンやクスクスのような料理を日常の核に据えてきました。
さらにラマダン、金曜礼拝、犠牲祭のような宗教暦が、食べることそのものを家族や地域の結び目にしています。
ハラールが形づくる食卓
イスラムの戒律に従えば、食卓から外されるのは豚肉とアルコールです。
その代わりに、羊・牛・鶏・魚が料理の中心に据えられ、何を口にするかが信仰の実践と直結します。
モロッコではこの原則が抽象的な教えで終わらず、毎日の献立の組み立て方そのものを決めているのが特徴です。
代表的なのが、とんがり帽子型の土鍋でじっくり煮込むタジンです。
蒸気を逃がしにくい形のため、肉と野菜、香辛料のうまみが一体になりやすく、家族の食事に向いた料理として根づきました。
北アフリカ発祥で「世界一小さいパスタ」とも呼ばれるクスクスも、粒をふんわり仕上げてソースを受け止める器のような役割を持ちます。
ハラールは禁忌を示すだけでなく、土地の食材と調理法を束ねてきた枠組みだとわかります。
ラマダンと日没後のハリラ
ラマダン(断食月)になると、一日のリズムは大きく組み替えられます。
日中の飲食を断つぶん、日没後のイフタールは空腹を満たす場であると同時に、家族が同じ時間に同じ食卓へ戻る合図になります。
筆者がラマダン期間中にモロッコを訪れたときも、日没の合図とともに静まり返っていた街が、急に生気を取り戻したのが印象に残りました。
家々から立ちのぼる湯気が路地に広がり、待ちわびた人びとの気配を一気に包み込んでいたのです。
その中心にあるのが、豆・肉・トマトを煮込んだ濃厚なスープ、ハリラです。
デーツやパンを添えて最初の一口を迎える習慣は、長い断食の後に胃をいたわる知恵でもあり、同時に祝いのような温度を食卓に与えます。
断食月は我慢の期間というより、何をどう食べるかを通じて共同体の感覚を強める季節だといえるでしょう。
金曜礼拝とイードの祝祭
週の節目である金曜礼拝、ジュムアの日には、家庭でクスクスを作って食べる伝統が広く根づいています。
礼拝を終えたあとに大皿を囲む流れは、宗教行為と日常の食事が切り離されていないことをよく示しています。
筆者が金曜日に招かれた家庭では、クスクスを手で分け合って食べるうちに、食事が単なる栄養補給ではなく、信仰と家族の秩序を確かめる時間なのだと実感しました。
犠牲祭、イード・アル=アドハーのような年中行事になると、その結びつきはさらに強くなります。
家族や地域が集う最大の祝祭として、特別な料理が食卓に並び、祝いの席にはパスティーラ(鳩肉などのミートパイ)も登場します。
宗教暦が暦の上の印ではなく、暮らしの節目を具体的に刻む力を持つことが、こうした食の風景からはっきり見えてきます。
中東・地中海地域の文明史を専門とし、イスラム圏10カ国以上のフィールドワーク経験を持つ。モスク建築や幾何学文様など、イスラム美術・文明の魅力を伝えます。
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