歴史・文明

中国のイスラム史|回族とウイグルの歩み

更新: 遠藤 理沙
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中国のイスラム史|回族とウイグルの歩み

中国のムスリムを代表する回族とウイグルは、どちらもイスラムを信仰しながら、起源・言語・歴史が大きく異なる別個の民族です。筆者が中央アジアやトルファンのオアシス都市を歩いたとき、仏教石窟とモスクが同じ街に重なって残る光景に、ウイグルがたどった宗教史の重層性を強く感じました。

中国のムスリムを代表する回族とウイグルは、どちらもイスラムを信仰しながら、起源・言語・歴史が大きく異なる別個の民族です。
筆者が中央アジアやトルファンのオアシス都市を歩いたとき、仏教石窟とモスクが同じ街に重なって残る光景に、ウイグルがたどった宗教史の重層性を強く感じました。
回族は漢語を話して全国に散らばり、ウイグルはテュルク系言語を用いて新疆に集中するという対比を押さえると、両者がなぜしばしば混同されるのかがはっきり見えてきます。
両民族の出発点は唐代、7世紀半ばにアラブ・ペルシア商人が広州や泉州の海路、あるいは中央アジアの陸路を通じてイスラムを伝えた時代にあり、そこから回族は中国文化への同化を深め、ウイグルは10世紀のカラハン朝を起点に長い時間をかけてイスラム化していきました。

回族とウイグルは何が違うのか

回族とウイグルは、どちらも中国のムスリムとして語られがちですが、起源・言語・居住圏を見れば別個の民族だとすぐにわかります。
回族はアラブ・ペルシア商人や元朝期の中央アジア系移民の子孫が漢化して形成された集団であり、ウイグルはもともと中央アジアにいたテュルク系民族です。
文化の違いは宗教だけでは説明できず、日常の話し言葉や街の景色にまではっきり表れます。

起源の違い:アラブ・ペルシア商人の子孫かテュルク系遊牧民か

回族の形成は、唐宋期に中国へ定住した外来商人を核に、13世紀の元朝期に中央アジア・ペルシア・アラビアからムスリムが大量に流入し、数世代をかけて漢語を母語とする形へまとまっていった過程として理解すると見やすいです。
イスラムが唐代の7世紀半ばに海のシルクロードと陸のシルクロードを通じて伝わったことを思い浮かべると、広州や泉州、西安に早い時期からムスリム社会が根づいた理由も腑に落ちます。
回族はその長い接触史の中で中国文化に深く同化し、宗教はイスラムでも生活文化は漢地社会と重なっていきました。

ウイグルはまったく異なる系譜です。
ウイグル可汗国は8世紀の762/763年にマニ教を国教とし、その後は高昌などで仏教を篤く信仰しました。
イスラム化は10世紀のカラハン朝から始まり、サトゥク・ブグラ・ハンが伝承では932年に改宗し、940年頃にカシュガルを掌握した流れへつながります。
つまり、回族が中国社会の中で形成されたムスリム共同体なのに対し、ウイグルは中央アジアの歴史そのものを土台にしてきた民族なのです。

言語の違い:漢語を話す回族とテュルク系言語のウイグル

最もわかりやすい差は言語です。
回族は独自の民族語を持たず、漢語を母語として暮らしてきました。
信仰が同じでも、話し言葉が漢語であることは生活世界の大半が中国語圏にあることを意味し、礼拝や食の作法を守りながらも、日常の会話や商取引、学校教育は漢語で回るわけです。

これに対して、ウイグルはテュルク系のウイグル語を話します。
市場で耳にする語感からして異なり、回族の漢語中心の空気とは別の文化圏が立ち上がります。
筆者が現地の市場を歩いたとき、回族の屋台では漢語が飛び交い、料理も中華風の味付けが基調でした。
ところが新疆の市場ではウイグル語と独特の香辛料が支配的で、同じ「中国のムスリム料理」という括りでは捉えきれないと感じたのです。
言語は単なる道具ではなく、料理や商習慣、家族の記憶までまとめて運ぶ器だと実感します。

比較軸回族ウイグル
母語漢語ウイグル語
言語系統漢語系テュルク系
日常文化との結びつき中国語圏の生活文化に密着中央アジア的な文化圏と連続

居住地の違い:全国に散らばる回族と新疆に集中するウイグル

居住パターンも対照的です。
回族は全国31の省・自治区・直轄市にまたがり、2000以上の県・市に分散して居住しています。
人口は2010年センサスで10,586,087人、約1058万人ですから、ひとつの地域に固まるのではなく、各地の都市や交易地に散って暮らしてきたことがわかります。
こうした「大分散・小集中」のあり方は、各地の漢族社会と接しながら宗教共同体を維持する回族の姿そのものです。

ウイグルの人口は2020年センサスで11,624,300人、約1162万人ですが、居住は新疆、とくに南部の数地区に集中しています。
街を歩けば、モスクの建築も目に入ります。
寧夏の街で見た回族のモスクは中国伝統建築の楼閣形式でしたが、新疆のモスクはドームとミナレットの中央アジア様式でした。
建築だけでも文化的距離が伝わってきます。
回族は漢地の都市文化と重なりやすく、ウイグルは新疆の地域社会に深く根を下ろしている。
この差が、同じイスラム教徒であっても、まとう文化を大きく分けているのです。

イスラムはいつ中国に伝わったのか

唐代のイスラム伝来は、7世紀半ばにまでさかのぼります。
預言者ムハンマドの時代からほどなく、アラブ・ペルシア商人が交易のために中国へ渡り、その一部が定住したことが出発点でした。
中国でイスラムが根を下ろしたのは、外から来た信仰が港町と内陸の交通路に沿って少しずつ生活の中へ入っていったからです。
回族とウイグルという別々の民族史を理解するうえでも、この唐代の入口は起点になります。

海のシルクロード:広州・泉州に集まった外来商人

海路では、広州や泉州のような南部の港にアラブ・ペルシアの商人が集まりました。
ここは単なる寄港地ではなく、香料、織物、陶磁器が行き交う交易都市であり、船が着くたびに言語も食習慣も異なる人々が出入りする場所でした。
信仰が残るためには、商いだけでなく共同体として腰を落ち着けられる環境が必要です。
だからこそ、港町にモスクが建ち、やがて定住者の子孫が増えていったのです。

広州の懐聖寺を訪ねると、『光塔』と呼ばれる円筒形の塔が、中国の街並みの中で異質に屹立していました。
あの姿は、唐代にこの地が海路イスラムの玄関口だった記憶を、建物そのものに刻みつけています。
泉州でも同じです。
宋代に入ると海上交易はさらに盛んになり、1009年に建設された清浄寺が、港町に外来ムスリムのコミュニティが根を下ろしていた事実を静かに語っています。

陸のシルクロード:中央アジア経由の人と信仰の往来

陸路では、中央アジアを経由して人と信仰が往来しました。
海のシルクロードが港町の商人を中心に広がったのに対し、陸のシルクロードはオアシス都市や隊商路を通って、より内陸の社会へイスラムを運びました。
この経路は後のウイグル史に深く関わりますが、同時に中国北西部の多民族世界にイスラムが入り込む回路でもありました。
回族が主に漢語圏で展開したのに対して、内陸のテュルク系世界では異なる歴史が育ったのは、この交通の違いが大きいのです。

唐代の中国にイスラムが入ったという事実は、宗教の布教というより、交易と移動が生んだ自然な接触として見るほうが実像に近いでしょう。
商人は商品だけを運んだのではありません。
礼拝の作法、食の禁忌、共同体の作り方まで、日常の全体を持ち込んだのです。
そのため、陸路の伝来を考えるときは、信仰が「どこから来たか」だけでなく、「どのような社会に根づいたか」を見る必要があります。

初期のモスク:広州・西安・泉州に残る痕跡

伝来の古さは、初期のモスクに最もよく残っています。
西安大清真寺は742年、唐・玄宗の時代の創建を伝え、広州の懐聖寺は7世紀・唐代に起源をもつ中国最古級のモスクのひとつです。
さらに泉州の清浄寺は1009年に建設され、海上交易の繁栄が宗教施設の成立と直結していたことを示しています。
建築年がそのまま信仰の歴史年表になっているわけです。

泉州を歩くと、清浄寺の石造アーチがアラビア書道の碑文とともに残り、千年前にこの港が地中海・インド洋とつながる国際都市だったことを石の質感から実感できます。
モスクは礼拝の場であると同時に、外来のムスリムがここで暮らし、子を育て、地元社会と折り合いをつけた証拠でもあります。
初期モスクの存在は、イスラムが中国に「伝わった」のではなく、唐代の社会に受け入れられ、定着する段階へ入っていたことを示す確かな手がかりです。

回族はどのように生まれたのか

回族は、唐宋期に中国へ定住した外来商人の家系を核として、13世紀の元朝に生じた大規模な人口移動を受け止めながら形づくられた民族です。
港町や交易拠点に生まれた小さな共同体は、元朝期にペルシア・アラビア・中央アジアから来たムスリムの流入で厚みを増し、漢語化と中国文化への同化を進めました。
だからこそ回族は、漢語を母語としつつイスラムの信仰を保つという、他のムスリム民族とは異なる姿を持つようになったのです。

唐宋期の『蕃客』:定住した外来商人とその家系

唐代から宋代にかけて、中国の港町や交易拠点には、ペルシア、アラビア、中央アジアなどから来た外来商人が居住しました。
彼らは『蕃客』と呼ばれ、交易の利益を求めて往来するだけでなく、現地に家を持ち、子孫を残し、地域社会の中に根を張っていきます。
ここで見落としてはならないのは、彼らがまだ回族という民族名を持っていなかった点でしょう。
回族の起点は、民族として完成した状態ではなく、異文化の人々が中国社会の内部に定着していく長い過程にありました。

この時代の重要性は、のちの回族形成を支える「最初の核」がすでに現れていたことにあります。
商業都市では、異国の言葉、食習慣、宗教慣行が交わる一方で、日々の暮らしは次第に中国の制度や慣習に包み込まれていきました。
筆者が回族の集落を訪ねたとき、モスクの礼拝後に交わされる挨拶も食卓の会話も漢語で、言語の上では中国社会の一部でありながら、暦と食の禁忌だけがはっきりイスラムだと感じられました。
そうした生活の層の重なりは、すでに唐宋期の定住の中で芽生えていたと考えると、歴史の見え方が変わります。

元朝の大移動:色目人とムスリム軍人の流入

回族形成の決定打は、13世紀の元朝でした。
モンゴル帝国がシルクロードを掌握し往来が自由化されると、ペルシア、アラビア、中央アジアから大量のムスリムが軍人、技術者、商人として中国各地へ流入します。
彼らは『色目人』を含む多様な集団として各地に定着し、既存の外来商人の子孫と結びつきながら、回族の人口的な母体を広げていきました。
単なる移住ではなく、帝国の交通網そのものが人の移動を促したことが、この変化を決定づけたのです。

実際、この大移動は家族の記憶の中にも残り続けています。
ある回族の古老から家系の話を聞くと、祖先が元朝期に西方から来た武人だったという口承が今も語り継がれており、数百年前の移動が現在の家族史に組み込まれていました。
大きな帝国の政治や軍事の動きが、個々の家庭では「うちの祖先は西から来た」という語りに変わって残るのです。
歴史は年表の上だけでなく、そうした口承のかたちで生き延びる。
そこに回族史を読む面白さがあります。

漢化と回族の成立:中国文化に溶け込んだムスリム

元末から明代にかけて、回族の祖先たちは数世代をかけて漢語を母語とし、中国式の姓を名乗り、建築や生活習慣を中国化させていきました。
ただし、信仰そのものまで失われたわけではありません。
モスクを中心にした共同体、食の禁忌、暦の意識は保たれ、生活文化は中国化しつつ宗教実践はイスラムのまま残るという二重性が形づくられました。
回族を理解する鍵は、この「文化は中国、信仰はイスラム」という重なりを分けて見ることにあります。

この漢化の結果として、回族は独自言語を持たない民族となりました。
回族は漢語を母語とし、独自の言語を持たない点で他のムスリム民族と異なりますが、それは消滅ではなく、長い同化と定着の帰結です。
居住のしかたもまた特徴的で、各地に広く散らばりながら、モスクや市場を中心に小さく密な共同体をつくる『大分散・小集中』の形を取ってきました。
元朝の移民、漢語化、そして回族という呼称の成立は、分散した人々が一つの民族的まとまりへと結晶していく過程そのものなのです。

ウイグルはどのようにイスラム化したのか

項目 内容
対象 ウイグルのイスラム化
主要な転換点 ウイグル可汗国のマニ教国教化、高昌ウイグルの仏教、カラハン朝の改宗、タリム盆地への長期浸透
中心人物 サトゥク・ブグラ・ハン
時間軸 8世紀から15世紀頃まで

ウイグルのイスラム化は、もともとイスラム教徒ではなかった共同体が、長い時間をかけて宗教文化を重ね替えていった過程として見ると理解しやすいです。
ウイグル可汗国は8世紀にマニ教を国教とした世界初の国家とされ、その後の西遷では高昌(トルファン)で仏教を深く受け入れました。
つまり、ウイグルの宗教史は、回族のようにイスラムの内部で生まれた歴史ではなく、マニ教・仏教を経てイスラムへ至る複層的な道筋にあるのです。

イスラム以前のウイグル:マニ教と仏教の時代

ウイグル可汗国は8世紀、762年または763年にマニ教を国教とした世界初の国家とされます。
ここで注目したいのは、イスラム化を語る前段に、すでに強い宗教選択の歴史があることです。
マニ教は交易路を通じて広がった宗教で、ウイグルの支配層はそれを国家の理念として採り入れました。
出発点からして、のちにイスラム圏で大きな存在感を持つ回族とはまったく異なる軌道をたどっていたわけです。

可汗国崩壊後、西へ移ったウイグルは高昌(トルファン)などで仏教を篤く信仰しました。
石窟寺院や写本が今も残り、宗教だけでなく文字文化や美術も含めた仏教文明の担い手だったことがわかります。
トルファン近郊の仏教石窟を訪れると、壁面の仏画の目が後世に削り取られた跡が残っていました。
仏教からイスラムへの転換が、一枚の壁の上に物理的に刻まれているようで、宗教史は抽象的な観念ではなく、土地に残る痕跡の積み重ねなのだと感じさせられます。

カラハン朝の集団改宗:テュルク系初のイスラム王朝

転機は10世紀のカラハン朝です。
サトゥク・ブグラ・ハンが伝承では932年にイスラムへ改宗し、940年頃カシュガルを掌握したことで、支配層の宗教が大きく動きました。
カラハン朝は史上最初のテュルク系イスラム王朝とされ、ここで起きたのは個人の信仰変更にとどまりません。
首長の改宗は政治秩序の再編を伴い、軍事・交易・婚姻を通じて周辺へ波及しうる力を持っていました。
だからこそ、この段階はウイグル史の中でも決定的です。

カシュガルの旧市街を歩くと、街の中心に立つ大モスクと迷路状のバザールが一体となって機能しており、宗教と都市生活が切り離せないことがよくわかります。
カラハン朝以来、この地がテュルク系イスラム世界の東端として千年機能してきた厚みは、石畳や路地の配置からも伝わってきます。
イスラム化は理念だけで進んだのではなく、礼拝、商い、統治が同じ空間に重なったときに、はじめて地域の秩序として根を下ろしたのです。

タリム盆地の段階的イスラム化:完了までの長い道のり

ただし、改宗は一気に終わったわけではありません。
高昌(トルファン)地域は15世紀頃まで主に仏教圏であり、タリム盆地全域へ信仰が浸透するには数百年を要しました。
ここに、ウイグルのイスラム化が単純な征服史ではない理由があります。
支配層がイスラム化しても、地方社会の宗教実践や文化記憶はすぐには切り替わらないからです。
古い仏教施設が残り続けたことは、信仰が層をなして併存していた証拠でもあります。

この長期性こそ、ウイグル史の独自性だと言えるでしょう。
マニ教の国教化、仏教文化の成熟、カラハン朝の改宗、そしてタリム盆地への段階的浸透という流れを追うと、ウイグルのイスラム化は「ある日突然」ではなく、数世紀にわたって社会の奥へ入り込んだ変化だったと見えてきます。
宗教の転換は、制度の上書きであると同時に、古い文化を抱え込んだまま進む長い再編なのです。

清朝期の回民蜂起とスーフィズム

清代の中国イスラム社会では、メッカやイエメンで学んだスーフィーの指導者たちが北西中国へ教えを持ち帰り、門宦と呼ばれる教団組織を築きました。
宗教的修養のネットワークは、単なる信仰の枠を越えて、地域社会の結束や権威のあり方まで形づくっていきます。
そこから生まれたフフィーヤとジャフリーヤの対立は、やがて同治年間の回民蜂起、さらに雲南のパンゼー蜂起へとつながり、清朝末期の中国イスラム史を読むうえで避けて通れない軸になりました。

スーフィズムの伝来:メッカ・イエメンで学んだ指導者たち

18世紀、メッカやイエメンでナクシュバンディー教団に学んだ指導者たちが、その教えを中国の北西部に持ち帰りました。
ここで重要なのは、彼らが運んだのが抽象的な思想だけではなく、共同修養の作法、師弟関係、墓廟を中心とする信仰のかたちだったことです。
こうして門宦と呼ばれる教団組織が各地に広がり、回族社会の宗教生活に深く根を下ろしました。

門宦は、単なる宗派名ではありません。
村落の人間関係、寄進、聖者廟への参詣、そして学びの継承を束ねる仕組みでもありました。
巡歴の途中で甘粛のスーフィー聖者廟を訪ねたとき、馬明心らジャフリーヤの殉教者を弔う拱北と呼ばれるドーム墓が今も篤く参詣されている光景に出会うと、18世紀の伝来が過去の出来事ではなく、現代の信仰実践の中で生き続けていることが実感されます。
歴史は資料の中だけにあるのではなく、祈りの場に残るのです。

老教と新教:門宦をめぐる対立

二つの主要な系統として、馬来遅(1681-1766)が伝えたフフィーヤと、馬明心(1718-1781)が伝えたジャフリーヤが生まれました。
清朝の支配を受け入れた穏健なフフィーヤは老教、より急進的なジャフリーヤは新教と呼ばれ、両者の違いは単なる教義差ではなく、社会との向き合い方の差でもありました。
祈りの声の出し方、聖者崇敬の扱い、教団内部の規律が、共同体の境界線を際立たせたのです。

この対立が深刻だったのは、宗教的な立場の違いがそのまま地域の主導権争いに接続したからです。
門宦は信仰の場であると同時に、資源や人脈を配分する拠点でもあったため、指導者の権威が揺らぐと、信徒の帰属意識も揺れます。
甘粛や陝西で拱北を歩くと、同じイスラムの枠内にありながら記憶の継ぎ方が異なることが見えてきます。
対立は過去の裂け目であると同時に、共同体が何を守ろうとしたのかを示す手がかりでもあります。

系統伝えた人物呼称特徴
フフィーヤ馬来遅(1681-1766)老教清朝との共存を選び、比較的穏健な姿勢を取った
ジャフリーヤ馬明心(1718-1781)新教より急進的で、教団の純化と規律を強く打ち出した

同治回乱:北西中国を揺るがした大蜂起

この宗教的緊張は、1862年から1873年にかけての陝西・甘粛を中心とする回民蜂起へと発展しました。
太平天国の動乱が波及する中で、漢族と回族の武装対立は一気に深刻化し、地域秩序そのものが崩れていきます。
蜂起は宗教対立だけで説明できるものではなく、軍事、税負担、地方権力の空白が重なった結果として理解する必要があります。

北西中国を揺るがしたこの事件の重みは、規模の大きさだけではありません。
人々がどの信仰実践を守るのか、どの指導者に従うのか、そして清朝の秩序を受け入れるのかという選択が、暴力の中で先鋭化した点にあります。
比較のために挙げるなら、同時代の清末社会では、宗教と政治が切り分けられるどころか、むしろ同じ場所で絡み合っていました。
だからこそ同治回乱は、中国イスラム史の局地的事件ではなく、帝国の統治構造が揺らいだ局面として読むべきなのです。

雲南では、杜文秀を指導者とするパンゼー蜂起が1855年から1873年まで続きました。
雲南の旧回族集落で地元の研究者から話を聞くと、その記憶は地域の口承として今も残る一方、史実の評価には立場による幅があることがわかります。
ここに、歴史をどう語るかという問題そのものの難しさがあります。
杜文秀の乱は、北西部の回民蜂起と並んで、清朝末期の中国イスラム社会が直面した構造的な緊張を示す出来事でした。

現代中国の多様なムスリム民族

中国のムスリムは回族とウイグルだけではありません。
イスラムを主に信仰するのは、回族・ウイグル・カザフ・東郷(ドンシャン)・キルギス・サラール・タジク・ウズベク・保安・タタールの10民族とされ、中国の中に多様な言語と歴史を抱えた集合体があることが見えてきます。
数で見れば、中国のムスリム総数は2010年センサスで約2300万人、国内人口の約2%にとどまり、その中で回族とウイグルが大きな比重を占めます。
だからこそ、少数ながら広く分布するこの共同体を、民族と地域の両面から見る必要があるのです。

イスラムを信仰する10民族とその言語

10民族を言語系統で眺めると、中国のムスリム社会がいかに重層的かがはっきりします。
回族は漢語を使い、東郷と保安はモンゴル系言語、タジクはペルシア系言語を話し、ウイグル・カザフ・キルギス・サラール・ウズベク・タタールはテュルク系言語に属します。
東郷族の村を訪ねたとき、モンゴル系の東郷語で会話しながらイスラムを信仰する人々の姿に触れると、「中国のムスリム=回族かウイグル」という二分法では現実を捉えきれないと実感します。
言語の違いは単なる話し方の差ではなく、移住・交流・定着の歴史そのものを映しているからです。

この多様さは、同じイスラムを共有しながらも、暮らしや記憶の層が一つではないことを示します。
回族のように漢語を母語とする集団がある一方で、中央アジアとの結びつきを色濃く残す民族もあり、宗教は共通でも文化の手触りは大きく異なります。
ひとまとめに見えていた中国ムスリムの姿が、実際には複数の歴史の交差点として立ち上がってくるはずです。

二つの自治区:寧夏回族自治区と新疆ウイグル自治区

行政区分の上でも、中国イスラムの輪郭ははっきりしています。
寧夏回族自治区は回族の主要な居住地で、2020年センサスの回族人口は2,523,581人、区内人口の35.04%を占めます。
新疆ウイグル自治区では、ウイグルの約74%が南部のカシュガル・ホータン・アクス・キジルスの4地区に集中しており、民族分布が地理と深く結びついていることがわかります。
銀川とカシュガルを同じ旅程で巡ると、二つの自治区が掲げる「回族」「ウイグル」という看板の下に、これほど異なる歴史と文化が共存しているのかと驚かされます。

寧夏では黄河流域の都市文化の中に回族社会が根を下ろし、新疆ではオアシスごとの生活圏がウイグル文化を支えてきました。
どちらも単なる居住地ではなく、宗教と民族の関係を可視化する空間です。
行政名としての自治区は、住民構成を示すだけではありません。
そこに暮らす人々が、どの言語を使い、どの市場で生き、どの記憶を受け継いできたかまで浮かび上がらせます。

回族とウイグルが映す、中国イスラムの多層性

回族とウイグルは、中国のムスリム社会を代表する二つの大きな柱ですが、両者を並べてみると、むしろ違いの広がりのほうが印象に残ります。
回族は漢語世界の中でイスラムを受け継ぎ、ウイグルはテュルク系の言語とオアシス文化の中で信仰を守ってきました。
共通するのは宗教だけではなく、周縁化されながらも地域社会の中心を支えてきた歴史です。

中国のイスラム史を現代へ引き寄せるなら、この二つの民族を鏡にして見るのがわかりやすいでしょう。
回族とウイグルは、人数の多さだけで目立つ存在ではなく、言語・地理・生活圏の違いを通して、中国ムスリム全体の多層性を映し出しています。
そこに10民族の広がりを重ねて眺めると、中国におけるイスラムは一枚岩ではなく、複数の道筋が合流した大きな流れだと見えてきます。

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遠藤 理沙

中東・地中海地域の文明史を専門とし、イスラム圏10カ国以上のフィールドワーク経験を持つ。モスク建築や幾何学文様など、イスラム美術・文明の魅力を伝えます。

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