イブン・ハルドゥーンとは|歴史学の祖
イブン・ハルドゥーンとは|歴史学の祖
イブン・ハルドゥーンは、1332年にチュニスで生まれ、1406年にカイロで没した14世紀イスラム世界を代表する歴史家・社会学者です。ハドラマウト系アラブの名門に連なり、政治家、外交官、裁判官としても生きたこの人物は、イスタンブールやチュニジアの宮廷跡を歩くと浮かぶ王朝交代の気配を、
イブン・ハルドゥーンは、1332年にチュニスで生まれ、1406年にカイロで没した14世紀イスラム世界を代表する歴史家・社会学者です。
ハドラマウト系アラブの名門に連なり、政治家、外交官、裁判官としても生きたこの人物は、イスタンブールやチュニジアの宮廷跡を歩くと浮かぶ王朝交代の気配を、まさに当事者として見つめていた人でもあります。
彼の主著『歴史序説』は、出来事を並べるだけの年代記とは異なり、文明の興亡を貫く法則を探る試みとして書かれました。
アサビーヤという連帯意識が国家を生み、都市の繁栄の中でその結束がゆるむと、より強い集団に取って代わられるという見方は、王朝の盛衰を理解するうえで今も鮮烈です。
しかも彼は、その循環をおよそ3世代、約120年のスパンで捉えました。
砂漠の厳しさが生んだ結束が都市で薄れていく過程まで射程に入れた視点は、単なる歴史談義を超えて社会そのものの仕組みを読むための手がかりになります。
数百年のあいだ埋もれた思想が19世紀のヨーロッパで再発見され、社会学や経済学、人口学の先駆として評価されるまでになったのは偶然ではありません。
波乱の生涯を送りながら、なぜ一人の政治家がこれほど先を読む理論にたどり着けたのか、その答えをたどってみてください。
イブン・ハルドゥーンとは何者か
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | イブン・ハルドゥーン |
| 生没年 | 1332年5月27日〜1406年3月17日 |
| 出身地 | チュニス |
| 家系 | 南アラビア・ハドラマウト出身のアラブ系、ハルドゥーン家 |
| 主な役割 | 歴史家、社会学者、政治家、外交官、裁判官 |
| 代表的評価 | 「歴史学の祖」「社会学の祖」 |
イブン・ハルドゥーンは、1332年5月27日にチュニスで生まれ、1406年3月17日にカイロで没した14世紀イスラム世界を代表する知性です。
ヒジュラ暦では732年から808年にあたり、73年あまりの生涯は、王朝の興亡と学問の成熟が交差した時代をそのまま生き切った時間でもありました。
単なる書斎の歴史家ではなく、政治の現場を知る実務家だったことが、彼の思考を際立たせています。
筆者がチュニスの旧市街を歩いたとき、ハフス朝時代の面影を残す路地の奥に、古典学問を学び始めた少年の姿を重ねずにはいられませんでした。
1332年チュニス生まれの学者・政治家
イブン・ハルドゥーンは、1332年5月27日にハフス朝の首都チュニスで生まれました。
1406年3月17日にカイロで生涯を閉じるまで、彼は73年あまりの時間を、北アフリカからエジプトへと広がるイスラム世界の中心で過ごしています。
生地と没地を並べるだけでも、その人生が一都市の学者人生ではなく、広域の政治と学問をまたぐ移動の連続だったことが見えてきます。
世界史の教科書では名前だけが独り歩きしがちですが、実像はずっと生々しいものです。
20歳前後で書記官となって以降、北アフリカとイベリア半島の諸スルタンに仕え、外交使節やカイロでの大カーディーを務めるなど、権力の現場に立ち続けました。
政治家、外交官、裁判官、そして歴史家。
この複数の顔が重なっていたからこそ、人間社会を制度と利害の動きとして捉える視線が育ったのです。
アラブ系の名門ハルドゥーン家の出自
彼の家系は、南アラビア・ハドラマウト出身のアラブ系として知られています。
いったんイベリア半島のセビリアで栄えた後、レコンキスタの圧迫を受けて北アフリカのハフス朝へ移った名門であり、その移動の歴史自体が家の記憶になっていました。
本人のフルネームは「アブドゥッラフマーン・イブン・ハルドゥーン・アル=ハドラミー」で、アル=ハドラミーという呼び名に出自が刻まれています。
この背景は、彼の思考を理解するうえで見逃せません。
祖先が支配地の移動と衰退を経験していたからこそ、王朝や都市の繁栄を永続するものとしては見ず、上昇と没落が繰り返されるものとして観察できました。
ハフス朝の首都チュニスに生まれた事実も、こうした移動の記憶が北アフリカで次の世代に引き継がれた結果だと読めます。
「歴史学の祖」「社会学の祖」と呼ばれる所以
今日、イブン・ハルドゥーンは「歴史学の祖」「社会学の祖」と呼ばれています。
その理由は、歴史を単なる出来事の列挙として扱わず、文明の興亡を貫く法則を探る学問へ押し上げた点にあります。
彼の主著『歴史序説(ムカッディマ)』は、世界史の大著『イバルの書(教訓の書)』の序説として1375年以降に城カラート・イブン・サラーマで集中的に書かれ、同時代の年代記とは異なる方向へ歴史記述を切り開きました。
中心にあるのはアサビーヤ、すなわち連帯意識・集団の結束力です。
血縁や共同生活で強まる結束が国家を生み、王権へ発展するが、砂漠の素朴な生活で培われた力は都市の繁栄の中で次第に弛緩し、やがてより強い集団に取って代わられる。
彼はこの興亡のサイクルをおおむね3世代・約120年として捉え、王朝初期は低税率でも税収が大きく、末期は高税率でも税収が減ると論じました。
後世にラッファー曲線を先取りしたと評されるのは、この洞察が制度の動きを数量感覚を伴って捉えているからです。
実際にチュニスのメディナを歩くと、石畳の路地に残る層の厚さが、彼の思考の出発点を少しだけ実感させてくれます。
世界史の暗記対象だった人物が、生身の政治家であり、亡命と栄達を繰り返した実務家だったと知ると、印象は一変するでしょう。
政治家・裁判官として生きた波乱の生涯
イブン・ハルドゥーンの生涯は、王朝の盛衰を論じた机上の理論ではなく、宮廷のただ中で身を削りながら得た経験そのものから形づくられました。
20歳前後でチュニスの支配者の書記官となって以後、北アフリカとイベリア半島の諸スルタンのもとを転々とし、昇進と失脚、保護と追放を何度も往復しています。
政治の現場で味わった緊張と不安定さが、そのまま後の思想の骨格になった人物だと言えるでしょう。
20歳で官僚となり宮廷政治に身を投じる
イブン・ハルドゥーンは1332年にチュニスで生まれ、20歳前後でチュニスの支配者の書記官(カーティブ)に就任しました。
若くして文書行政の中枢に入ったことは、単なる出世の速さを意味しません。
命令がどのように作られ、誰の利害が通り、誰が突然切り捨てられるのかを、最も近い距離で見る立場に置かれたということです。
以後の彼は、学者というよりも、政治の変動に巻き込まれながら立ち回る実務家として歩み始めます。
北アフリカとイベリア半島の諸スルタンに次々と仕えたのも、この宮廷世界の流動性をよく示しています。
要職は安定した地位ではなく、君主が変われば一気に崩れる仮の足場でした。
だからこそ彼の経歴には、栄達と失脚が交互に現れます。
権力の中心に近づくほど危うさも増す、この構造を身をもって知ったことが、後年の冷静な王朝論へとつながっていきます。
アンダルスと北アフリカを渡り歩く外交官
1364年、イブン・ハルドゥーンはグラナダのナスル朝に仕え、カスティーリャ王ペドロ1世のもとへ外交使節として派遣されました。
ここで彼が越えたのは国境線だけではありません。
キリスト教世界とイスラム世界の境界を実際に行き来した経験は、ひとつの文明だけに寄りかからない視点を育てます。
相手を外側から眺めるだけでなく、制度や権力の動きがどの社会でも似た緊張を生むのだと、身体感覚で理解したはずです。
筆者がグラナダのアルハンブラ宮殿を訪れたとき、ここにイブン・ハルドゥーンが外交官として滞在したのだと知り、地中海を横断して残った足跡の大きさに圧倒されました。
宮殿の華やかさは、彼にとって栄光の舞台であると同時に、王朝が常に崩れうることを示す現場でもあったのでしょう。
取材で会った歴史研究者が「彼の理論は宮廷で裏切られ続けた人間にしか書けない」と語っていましたが、その言葉はこの時期の彼をよく言い当てています。
カイロでの裁判官就任と1401年ティムールとの会見
晩年に移住したカイロでは、イブン・ハルドゥーンはマムルーク朝に重用され、マーリク派の大カーディー(裁判官)に通算6度も任じられました。
政治の渦中を離れても、彼はなお制度の核心に置かれ続けたのです。
裁く側に立った経験は、王権の栄枯盛衰を上から眺めるのではなく、法と秩序を支える側面から見直す機会になりました。
宮廷の武断と法廷の規律、その両方を知る人物は当時でも稀だったでしょう。
1401年にはダマスカスを包囲した征服者ティムール(タメルラン)の陣中に招かれ、直接対話するという歴史的な場面も経験しています。
ここでも彼は、ただの書斎の学者ではなく、権力者と顔を合わせて世界の力学を測る人物でした。
失脚と亡命の繰り返し、そして最後にカイロで裁判官として迎えられた事実は、彼の理論が偶然の思いつきではなく、波乱の生涯に裏打ちされた観察だったことを示しています。
主著『歴史序説(ムカッディマ)』とは
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | 『歴史序説(ムカッディマ)』 |
| 位置づけ | 『イバルの書(教訓の書)』の冒頭・序説 |
| 執筆時期 | 1375年以降 |
| 執筆場所 | 現アルジェリアのカラート・イブン・サラーマ城 |
| 核心概念 | ウムラーン(文明) |
| 重要な邦訳 | 森本公誠訳『歴史序説』岩波文庫全4巻 |
『歴史序説(ムカッディマ)』は、『イバルの書(教訓の書)』という世界史の大著に付された序説ですが、その独創性ゆえに、後世では独立した古典として読まれるようになりました。
歴史を書き連ねる本ではなく、歴史の背後にある社会の仕組みを読み解く本として受け取られてきたところに、この書の特異さがあります。
14世紀の著作でありながら、近代の社会科学に接するような読後感を与えるのは、その視線が出来事ではなく構造へ向いているからです。
『イバルの書』の序章として書かれた歴史哲学
『歴史序説(ムカッディマ)』は、『イバルの書(教訓の書)』の一部として構想されましたが、そこで展開された歴史の見方は、単なる前書きの域を超えていました。
王朝の興亡や戦乱の記録にとどまらず、なぜ文明が生まれ、なぜ衰えるのかを問うための理論装置になっていたのです。
後世の読者がこの序説だけを独立して読むようになったのは、内容が本編の説明役ではなく、それ自体で完結した思想書だったからでしょう。
筆者が邦訳『歴史序説』を初めて通読したときも、驚いたのはまさにその点でした。
14世紀の文章とは思えないほど分析が鋭く、読み進めるうちに、歴史書ではなく社会学書を開いているような錯覚すら覚えたのです。
出来事の羅列を離れ、社会の力学を見ようとする姿勢は、今読んでも古びません。
だからこそ、アサビーヤ論や王朝の循環をめぐる議論が、単なる中世史の知識ではなく、社会を見るレンズとして生きてくるのでしょう。
城に隠棲して書き上げた執筆の経緯
執筆が集中的に進んだのは、1375年以降、政治の表舞台から退き、現アルジェリアのカラート・イブン・サラーマ城に隠棲していた時期でした。
喧騒のただ中で権力や人事を動かしていた人物が、そこで静かな環境を得たことが、この書の骨格を整える決定的な条件になったのです。
城にこもって数か月で書き上げたというエピソードは、単なる逸話ではなく、激動の現場を離れたからこそ理論が結晶したことを示しています。
現場の熱気は観察を豊かにしますが、理論を一つに束ねるには、むしろ距離が要る。
『歴史序説』の鋭さは、その距離の取り方に支えられています。
政治の断片を追うのではなく、人生の後半に得た静寂の中で、それまで見てきた社会の断面を整理し直したからこそ、あの緊張感が生まれたのだと考えると、書物の輪郭がいっそう鮮明になるはずです。
「ウムラーン(文明学)」という新しい学問の宣言
この書で彼は、文明(ウムラーン)を扱う「これまで歴史に現れたことのない新しい学問」を打ち立てたと自負しました。
ここで重要なのは、歴史を「何が起きたか」の記録としてではなく、「人間社会と文化がどう成立し、どう栄え、どう衰えるか」を探る対象として捉え直している点です。
つまり、政治史の外側にある社会の法則へ踏み込んでいるのであり、その発想は近代社会科学を先取りしていると受け取れます。
ウムラーンという語は、都市生活や共同体のあり方を含む広い文明概念として働きます。
だからこそ、この書を読むときは、王朝名や事件名を追うだけでは足りません。
人間が集まり、分業し、権力を持ち、やがて衰えていく、その連鎖を見抜こうとする視点こそが核心です。
森本公誠訳『歴史序説』が岩波文庫から全4巻で刊行されているので、原典の論理を日本語でたどるなら、この邦訳を手に取ってみてください。
アサビーヤ論と文明論の射程は、じっくり読み込むほど面白くなります。
中心概念「アサビーヤ(連帯意識)」とは
アサビーヤとは、イブン・ハルドゥーンが歴史を読み解く中心に据えた「連帯意識」「集団の結束力」のことです。
血縁を共有する部族や小集団のあいだに自然に生まれるこの力は、彼にとって国家が成立する根本の原動力でした。
宗教的な熱意だけでは説明しきれない王朝の誕生と衰退を、社会の内部にある結束の強さから捉え直した点に、この概念の独自性があります。
アサビーヤが国家と王権を生む仕組み
アサビーヤは、単なる仲間意識ではありません。
厳しい環境の中で互いを守り合い、必要なときに犠牲を引き受ける関係が積み重なると、集団には指導者を立てる力が生まれます。
イブン・ハルドゥーンは、その結束がやがて王権へと発展し、国家や王朝を成立させると考えました。
つまり、政治権力は上から与えられるものではなく、まず共同体の内部で育つという見方です。
この発想が示すのは、歴史の動きに偶然だけを見ない姿勢でしょう。
強い連帯は外敵に対抗する力になり、勝利が続けば支配の正当性も集まります。
そこから首長権が生まれ、さらに徴税や軍事を支える恒常的な権威へと変わっていく。
アサビーヤは、その変化を一本の因果の鎖として説明する概念でした。
現代の組織論で語られるチームの結束力や、スポーツチームの一体感に近い感覚といってよいかもしれません。
遊牧民バダーワと都市民ハダーラの対比
イブン・ハルドゥーンは、人間の生活様式をバダーワとハダーラに分けました。
バダーワは砂漠や田舎の素朴な生活、ハダーラは都市の洗練された定住生活を指します。
両者は単なる文化的な好みの違いではなく、文明が生まれては衰える循環そのものを支える二つの極として描かれています。
ここを押さえると、彼の歴史観がなぜ王朝の興亡に強く向かったのかが見えてきます。
ℹ️ Note
筆者がモロッコの遊牧民の集落と大都市フェズの両方を取材したときも、共同体の結束の濃度は明らかに違っていました。顔の見える範囲で暮らす集落では、助け合いが生活の前提になっていましたが、フェズでは人の多さと分業の細かさが結束のあり方を変えていたのです。そこで感じた差は、アサビーヤが机上の抽象論ではなく、現実の観察に根ざした概念だという確信につながりました。
砂漠に暮らす人々は、厳しい自然条件のもとで互いに依存せざるを得ません。
そのためアサビーヤが強く保たれやすく、集団としての持久力も高くなります。
これに対して都市では、繁栄と享楽が生活を豊かにする反面、共同体を支えていた緊張感が薄れやすい。
食文化や住まい、仕事の分業が進むほど便利にはなりますが、誰かと命運をともにする感覚は弱まっていく。
ここに、次の章で見る王朝興亡サイクルの起点があります。
宗教を前提にしない歴史分析の革新性
アサビーヤの革新性は、国家の盛衰を宗教や神の意志に還元しなかった点にあります。
イブン・ハルドゥーンは、王朝が生まれる理由を超自然的な説明に委ねず、人々の結束、環境への適応、都市化による変化といった社会的な条件から説明しました。
これは、歴史を「何が起きたか」だけでなく、「なぜその順番で起きたか」として読む方法でもあります。
観察できる要因に軸足を置いたからこそ、彼の議論は時代を超えて読み返されてきました。
現代の組織でも、立ち上がりの強いチームは共通の目的でまとまり、成功ののちに役割分担が細かくなるにつれて熱量が下がることがあります。
スポーツでも同じです。
勝ち上がるほど個々の能力は洗練されても、初期のような濃い結束が維持されるとは限りません。
アサビーヤは、こうした変化を理解する手がかりとして今も有効です。
読者が自分の職場や所属集団を思い浮かべても、十分に実感できる概念ではないでしょうか。
王朝の興亡サイクルと「3世代120年」説
イブン・ハルドゥーンが描いた王朝史は、単なる年代記ではなく、アサビーヤの強弱で文明の浮沈を読む理論です。
強い連帯を持つ集団が王朝を建て、都市文化が栄えるほど結束はゆるみ、やがて別の強い集団に取って代わられる。
こうした循環は、王朝の内部で何が起きると衰退が始まるのかを、きわめて具体的に示しています。
勃興・成熟・衰退の3段階モデル
イブン・ハルドゥーンは、王朝の生涯を勃興、成熟、衰退の3段階で捉えました。
勃興期には、厳しい生活を共有した集団の素朴さと結束が力になります。
成熟期には都市が整い、文化と経済が花開く半面、その豊かさが支配層の感覚を変えていく。
衰退期になると、かつて王朝を支えたアサビーヤは鈍り、軍事力も統治の緊張感も弱まります。
筆者がオスマン帝国史を追っていたとき、建国期の精強さと末期の硬直がこのモデルに驚くほど重なって見えました。
取材で中東の各王朝の遺跡を歩くと、栄華の絶頂と急速な崩壊が同じ場所に刻まれていることがあります。
壮麗な宮殿や都市計画は成熟期の豊かさを語りますが、その背後には、支配の骨組みが少しずつ痩せていく時間も潜んでいるのです。
だからこそ、この3段階モデルは抽象論ではなく、帝国の空気が変わる瞬間を読む手がかりになります。
1世代ごとに変質する支配集団
支配集団は、世代が進むごとに性格を変えていきます。
建国者の世代は荒野や戦場の厳しさを知り、何を守るべきかを身体で理解している。
ところが、その子や孫の世代になると、王朝は日常になり、宮廷の礼法や贅沢が当たり前になります。
すると、共通の危機感で結ばれていた連帯は薄れ、同じ集団であっても最初の強さを保てなくなるのです。
イブン・ハルドゥーンが王朝の寿命をおおむね3世代・約120年と見積もったのは、この変質を前提にしていました。
三代目まで進むと、建国の記憶はほとんど伝説になり、統治は慣性で続くだけになりやすい。
筆者はこの見立てを、机上の数字ではなく、遺跡の断片や王朝史の連続した断絶から実感しました。
時間が経つほど強さが自動的に継承されるわけではない、そこが核心です。
課税と財政から見た衰退の力学
彼は衰退を、財政の動きからも説明しました。
王朝の初期は低税率でも税収が多く、末期は高税率を課しても税収が減る、と考えたのです。
建国直後は統治が軽く、商業も活発で、住民は負担を受け入れやすい。
ところが支配が重くなると、徴税は厳しくなり、人々は意欲を失い、経済の勢いそのものが弱まっていきます。
税率を上げれば増収する、という単純な発想が成り立たない点に、彼の鋭さがあります。
この洞察は、20世紀の経済学で語られるラッファー曲線の先駆として読まれてきました。
税の水準と税収の関係を一つの線で見るのではなく、国家の活力と結びついた循環として見る視点です。
王朝が弱ると税を上げたくなり、税を上げるとさらに弱る。
この悪循環を説明できるところに、イブン・ハルドゥーンの理論が今なお読まれる理由があります。
西洋への再発見と現代社会科学への影響
イブン・ハルドゥーンの思想は、彼の死後もしばらくイスラム世界で読み継がれたものの、世界的な評価を得るまでには数百年を要しました。
ヨーロッパで本格的な研究が始まるのは19世紀に入ってからで、そこから彼の著作は、歴史書という枠を超えた理論的な古典として見直されていきます。
筆者がヨーロッパの大学図書館で19世紀のド・サシによる校訂版に触れたとき、東洋の知が西洋に逆輸入されていく瞬間の記録を手にしている感覚がありました。
300年の時を経た19世紀ヨーロッパでの再発見
1806年、フランスの東洋学者シルヴェストル・ド・サシが伝記と抄訳を発表したことで、西洋の学者たちはイブン・ハルドゥーンの独創性に気づき始めました。
やがてアラビア語の完全な校訂版も刊行され、研究は一気に広がります。
ここで起きたのは、単なる古典の紹介ではありません。
アラビア語圏で保存されていた知が、近代ヨーロッパの学問制度に接続され、歴史思想の射程そのものを広げた出来事でした。
この再発見が重要なのは、イブン・ハルドゥーンが「過去の著者」としてではなく、「近代に先回りした理論家」として読まれ始めた点にあります。
テキストが正確に整えられ、比較読解が可能になったことで、彼の議論は歴史叙述の素材から理論的命題へと姿を変えました。
知の移動は一方向ではなく、時代をまたいで再解釈されるのだと、ここでよくわかります。
社会学・経済学・人口学の先駆としての評価
20世紀の歴史家アーノルド・トインビーは、『歴史序説』を「この種の著作で最も偉大なもの」と評しました。
この評価は、イブン・ハルドゥーンが王朝の盛衰を語るだけの歴史家ではなく、社会の結びつき方や人口の増減、権力の循環を分析した思考家だったことを示しています。
今日では社会学・経済学・人口学の先駆者として、近代社会科学の系譜の冒頭に位置づけられています。
その位置づけが納得できるのは、彼の関心が個々の事件ではなく、社会を動かす規則性に向けられていたからです。
都市と遊牧、共同体の結束、富の蓄積と衰退といったテーマは、後世の学問がそれぞれ独立の分野として扱う問題でした。
だがイブン・ハルドゥーンは、それらを一つの大きな社会変動の枠組みの中で捉えていました。
分野が分かれる前の、総合知の強さがここにあります。
現代の経済学の授業でラッファー曲線を学んだ読者が、その原型が600年以上前のイスラム世界にあったと知れば、驚くのではないでしょうか。
そうした知の越境こそが、イブン・ハルドゥーンを今なお読み返す理由です。
アダム・スミスやラッファーに先んじた経済思想
彼の経済思想は特に先進的でした。
労働が価値を生むという視点や分業の重要性はアダム・スミスに数百年先行し、課税と税収の関係はラッファー曲線を先取りしていたのです。
14世紀の北アフリカで、彼はすでに市場の働きと国家財政の限界を見抜いていました。
歴史の文脈に置くと、その鋭さはいっそう際立ちます。
分業論が先行していたことの意味は、単に「早かった」というだけではありません。
仕事を細かく分けることで生産性が高まり、社会全体の富が変化するという発想は、近代経済学の基礎そのものだからです。
イブン・ハルドゥーンは、都市の発展や職能の分化を観察しながら、労働が価値を生む過程を理論化していました。
ここに、経験知が抽象理論へと昇華する瞬間があります。
税についての洞察も同じです。
税率を上げれば国家収入が増えるとは限らず、負担が重すぎれば経済活動が細る。
彼はこの逆説を、まだグラフで描かれる以前に言葉で捉えていました。
近代の用語で読み替えると新鮮ですが、本質はもっと古い。
14世紀の北アフリカに、すでに現代社会科学の入口が開いていたのです。
中東・地中海地域の文明史を専門とし、イスラム圏10カ国以上のフィールドワーク経験を持つ。モスク建築や幾何学文様など、イスラム美術・文明の魅力を伝えます。
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