歴史・文明

日本とイスラム教の歴史|明治から現代まで

更新: 遠藤 理沙
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日本とイスラム教の歴史|明治から現代まで

東京・代々木上原の東京ジャーミイを見学すると、礼拝のための静かな空間でありながら、地域の見学者が建築や文化に引かれて自然に出入りしている光景に出会います。日本とイスラムの関係は、こうした「遠い宗教」ではなく「街の中で交わる文化」として見えてくるもので、本格的な接点は幕末から明治以降に始まり、

東京・代々木上原の東京ジャーミイを見学すると、礼拝のための静かな空間でありながら、地域の見学者が建築や文化に引かれて自然に出入りしている光景に出会います。
日本とイスラムの関係は、こうした「遠い宗教」ではなく「街の中で交わる文化」として見えてくるもので、本格的な接点は幕末から明治以降に始まり、明治・戦前・戦後・現代の4期でその姿を変えてきました。
本稿は、ムスリム、すなわちイスラム教徒やモスク、すなわち礼拝所が日本でどのように根づいてきたのかを知りたい人に向けて、エルトゥールル号事件、1935年の神戸モスク、1938年の東京回教礼拝堂と東京モスク、そして1980年代以降の移住拡大を軸に、時系列で全体像をつかめるように整理します。
あわせて、ハラール(イスラム法で許可されたもの)を含む現代の生活環境にも触れながら、複数の研究・報道による推計を併記します。
2024年初頭の推計は約35万人(出典例:IMEGS 等の研究系推計)、同年末の別推計は約42万人(出典例:報道系集計)、総人口比はおおむね約0.3%前後と報告されています。
モスク数についても集計の定義により差があり、報道系の集計では2025年時点で約160〜164カ所とするものがあります(出典例:JAPAN Forward)。
数値の違いは、在留資格ベースか世帯ベースか、日本人改宗者や短期滞在者をどこまで含めるか等、母集団の定義の差によるものです。
参考(外部資料の例): , (出典例:IMEGS(研究系推計)、JAPAN Forward(報道系集計)等。
推計の幅は、在留資格ベースか国籍/世帯ベースか、日本人改宗者や短期滞在者を含めるかといった母集団定義の違いによります。
主要な研究系・報道系の推計を併記しています。

日本とイスラム教の関係はいつ始まったのか

奈良〜中世の断片的接触の可能性

日本とイスラム教の関係をたどるとき、まず区別しておきたいのは、奈良時代から中世にかけて見えるのは断片的な接触の可能性であって、近代以降のような継続的交流ではない、という点です。
日本列島にいた人びとが、当時すでに西アジアや中央アジアで広がっていたイスラム世界と無関係だったわけではありません。
ただし、そのつながりの多くは唐や宋を経由した間接的なもので、誰がどこでどのように出会ったのかを直接示す史料は限られています。

奈良時代の日本には、シルクロードを通って東へ運ばれた文物や意匠が流れ込みました。
ガラス器、染織、金工、異国風の文様といった品々の背後には、西方世界との長い交易路があります。
とはいえ、それをそのまま「日本とイスラム教の直接交流」と言い切ることはできません。
イスラム成立後の文物流通が東アジアに影響した可能性はあっても、日本に来た時点ではすでに複数の地域と時代をまたいだ伝播の結果だからです。
歴史資料館の展示でシルクロード関連のガラス器や装飾品を見るたび、筆者は「ここに西方世界の気配はあるが、目の前の一点がそのまま日本とムスリムの対面を証明するわけではない」と整理すると腑に落ちる、と感じます。

知識の面でも、間接的な接触はありました。
中国の地理書や交易情報を通じて、日本の知識人が西域や大食国に関する情報に触れていた可能性は高いです。
海の向こうに自分たちとは異なる信仰と文明を持つ人びとがいる、という認識は、断片的ながら形成されていたのでしょう。
当時の人々にとって、それは「イスラム教徒との近しい交流」というより、東アジアの外に広がる世界像の一部として受け止められていたはずです。

中世に入っても状況は大きく変わりません。
宋・元との往来、さらに東アジア海域の交易ネットワークを通じて、イスラム圏由来の知識や物資が日本に届いた余地はありますが、日本国内にムスリム共同体が形成されたことを示す材料は見当たりません。
したがって、この時代を語るときは「接触の痕跡がゼロではない」と「本格的な交流が始まっていた」は分けて考える必要があります。

幕末〜明治の国際環境と接点の拡大

日本とイスラム世界の関係が、歴史の表面にはっきり現れてくるのは幕末の開国以降です。
対外関係の窓口が広がり、明治維新後に日本が国際社会へ本格的に乗り出すと、イスラム圏との接点も外交・渡航・知的関心という形で増えていきます。
ここから先は、古代や中世の「間接的接触」とは質が異なります。
人と人が往来し、相手を具体的な国家や社会として認識する段階に入ったからです。

象徴的なのが、明治期のオスマン帝国との接触です。
使節の往来や相互の関心が積み重なり、日本とトルコの関係史の起点となる出来事が並びます。
とくにエルトゥールル号事件は、単なる海難事故としてではなく、日本社会がイスラム世界の一員であるオスマン帝国を強く意識する契機となりました。
和歌山県串本町のトルコ記念館に足を運ぶと、模型や遺品、写真資料がコンパクトに収まった展示空間の中で、遠い外交史が急に具体的な顔を持ちはじめます。
樫野埼の海を前にすると、近代の接点は抽象的な文明交流ではなく、実際に船が来て、人が倒れ、人が助けたという出来事から積み上がったのだと実感できます。

この時期には、日本人がイスラム圏へ渡り、現地社会を観察し、場合によっては信仰にも近づく例も現れました。
山岡光太郎のように20世紀初頭にメッカ巡礼を果たした人物が現れるのは、その流れの延長線上にあります。
日本側の関心は純粋な宗教的興味だけでなく、地政学、通商、アジア認識とも結びついていました。
つまり明治の接点は、信仰共同体の形成より先に、国家間関係と知識人の視線によって開かれたのです。

その後の戦間期には、ロシア革命後に流入したタタール人ムスリムが日本各地で初期共同体づくりを支え、神戸モスクが1935年、東京回教礼拝堂が1938年に成立します。
ただ、この段階でも日本社会全体から見れば規模はまだ小さく、近代の入口で築かれた接点がようやく定着の形をとりはじめた時期と捉えるのが自然です。
日本とイスラム教の関係は、奈良〜中世の遠い間接接触を前史としつつ、実際の交流史としては幕末から明治に立ち上がった、と見ると全体像がぶれません。

主要年表

1870〜1945

近代日本とイスラム世界の関係が、歴史の上で輪郭を持って見えてくるのは1870年代以降です。
開国体制のもとで日本が欧米だけでなく西アジアにも視線を向けはじめると、オスマン帝国との接触が外交史の一場面として現れます。
当時の日本にとって、イスラム世界はまだ身近な宗教共同体ではなく、近代化を進める国家として向き合う相手でした。
人の往来も共同体の規模も小さい一方で、この時期に生まれた接点が、その後の日土関係と在日ムスリム史の土台になります。

その象徴が1890年のエルトゥールル号遭難です。
和歌山県串本町沖でオスマン帝国軍艦エルトゥールル号が遭難し、地元住民が救助と看護にあたった出来事は、日本社会にとってイスラム世界との接触を一気に具体化する事件でした。
海難と救援という切迫した場面を通じて、遠い国の人びとが抽象的な「異国」ではなく、命を持つ隣人として立ち現れたからです。
串本のトルコ記念館に入ると、模型や遺品、写真資料が静かに並び、近代外交史の出発点が一つの海辺の出来事に凝縮されていたことを実感します。
展示規模は大きくなく、館内の見学だけなら30〜60分ほどで全体を追えますが、樫野埼灯台や慰霊碑まで歩くと、この事件が記念碑の中だけで完結していないことがよくわかります。

20世紀初頭には、日本人がイスラム圏に渡って知識や経験を持ち帰る流れも現れました。
1909年に山岡光太郎がメッカ巡礼を果たしたことは、その象徴的な一例です。
ただし、この段階の広がりはまだ個人の渡航や知的関心の域を出ず、日本国内に安定したムスリム共同体が根づいたわけではありません。
転機となったのは1917年以降、ロシア革命の余波の中で中央アジア・ロシア系のタタール人ムスリムが日本へ流入したことです。
神戸や東京には小規模ながら礼拝と教育の場が生まれ、在日ムスリム社会の骨格が形づくられていきました。

この時期の到達点として挙げたいのが、1935年完成の神戸ムスリムモスクと、1938年建立の東京回教礼拝堂、いわゆる初代東京モスクです。
どちらも、単なる建築物ではありません。
礼拝、共同体形成、異文化との接点が一つの空間に収まった拠点でした。
戦中期の滞日ムスリム人口は500〜700人ほどにとどまりましたが、その数の小ささに反して、存在感は濃いものがあります。
当時の人びとにとって、モスクは「日本の中にある海外」ではなく、日本社会の中でイスラムを生きるための足場を示す建物でした。

1945〜2000

敗戦後、日本とイスラムの関係は、戦前の国家政策や対外戦略から切り離され、より生活に根ざした共同体の歴史へと移っていきます。
出発点の規模は小さく、戦後しばらくの在日ムスリム社会は細い糸のような連続性を保つ段階でした。
その中で1953年に日本ムスリム協会が設立され、創立時の会員は47人でした。
数字だけ見ると控えめですが、戦前から続く個人の信仰、外国人居住者の礼拝、日本人改宗者の活動を一つの組織として束ねた意味は大きく、この時期の共同体の中心を示しています。

1960年代末でも外国人ムスリム人口は約1,500人にとどまり、1984年時点でも滞日ムスリム人口は約8,000人でした。
つまり、戦後から高度経済成長期までの日本では、ムスリムの存在は都市部の限られたネットワークの中に集まり、全国的に可視化される段階には達していませんでした。
礼拝の場も限られ、既存のモスクや小規模礼拝所が細く長く支える時代だったといえます。

風景が変わるのは1980年代以降です。
イランパキスタンバングラデシュなどからの来日が増え、就労、留学、結婚、家族形成を通じて、日本のムスリム社会は新しい局面に入ります。
この変化は、単に人数が増えたというだけではありません。
コンビニや工場、大学、輸入雑貨店、地域のアパートといった日常の空間にムスリムの生活が入り込み、モスクが礼拝施設であると同時に生活相談や交流の拠点として機能しはじめた点に特色があります。
戦前の共同体が「存在していること自体に意味がある段階」だったとすれば、1980年代以降は「地域の中で暮らしを営む段階」へ進んだわけです。

その拡大を端的に示す数字が1999年の全国モスク数15です。
戦前から続く神戸モスクや東京モスクのような象徴的施設だけでなく、地方都市にも礼拝所が点在しはじめ、日本のイスラム史は東京・神戸中心の物語から全国分布の物語へ移ります。
2000年を迎える頃には、ムスリム共同体はもはや一部都市の例外ではなく、日本社会の各地でゆっくり定着する存在になっていました。

2000〜2026

2000年以降の変化は、在日ムスリム史の中でも最も目に見えるものです。
モスク、ハラール対応、外国人住民支援、観光、教育が互いに結びつき、イスラムは「遠い宗教」ではなく地域社会の現実として姿を見せるようになります。
数字の伸びが、その変化をはっきり物語ります。
1999年に15だった全国のモスク数は、2021年には113まで増え、別の集計では同時期に130を超えています。
数え方や集計時点の違いはあるものの、20年余りで礼拝空間が全国へ広がった流れそのものは揺らぎません。

人口面でも伸びは鮮明です。
2019年末時点のムスリム人口は約23万人と見積もられ、2024年には複数推計で約35万人から約42万人、総人口比では約0.3%の水準に達しています。
日本では宗教別の公的統計がないため数字には幅がありますが、2000年代初頭と比べて共同体の厚みが増したことは疑いようがありません。
街を歩いていても、以前は大都市の一部でしか見かけなかったハラール食材店や礼拝案内が、地方都市や工業集積地、大学町でも視界に入るようになりました。
東京・名古屋・大阪のような大都市圏だけでなく、技能実習生や留学生が多い地域にもムスリムの暮らしが根づいています。

モスクの分布は2025年時点で約160〜164に達し、約140自治体に広がっています。
ここまで来ると、モスクは単なる宗教施設ではなく、地域の多文化共生を映す指標でもあります。
金曜礼拝の場であると同時に、食事会、日本語支援、子どもの学び、ラマダーンの共有が行われる拠点となり、日本の都市と地方の双方で「日常の中のイスラム」を可視化しています。
当初は外交と海難救助から始まった関係が、2020年代には保育園の献立、企業の礼拝スペース、大学の留学生支援といった生活の細部にまで届いているわけです。

💡 Tip

年表を追うときは、「外交の接点」「共同体の形成」「移住と定住」という三つの軸で見ると流れがつかめます。エルトゥールル号は接点、神戸ムスリムモスクと東京モスクは形成、1980年代以降の人口増とモスク増設は定住の段階を示しています。

2026年の時点で振り返ると、日本とイスラムの関係史は、事件史だけでも宗教史だけでも捉えきれません。
明治の海辺で生まれた縁が、戦前の小さな共同体を経て、現代には数十万人規模の生活世界へつながっています。
年表の数字を追うだけでも変化は見えますが、実際には一つひとつのモスク、一人ひとりの移住者、地域で交わる日常の積み重ねが、この歴史を形づくってきました。

明治期:オスマン帝国との接近と最初の日本人ムスリム

対オスマン外交と相互関心の芽生え

明治維新後の日本は、欧米列強だけでなく、アジア・中東の諸国家とも新しい外交関係を模索しはじめました。
そのなかでオスマン帝国は、日本にとって遠いイスラム世界の中心であると同時に、同じく近代化の課題に向き合う帝国として映っていました。
日本側には、欧州に囲まれながら改革を進めるオスマンへの関心があり、オスマン側にも、急速に国家体制を整えつつある極東の新興国日本への好奇心がありました。
当時の人びとにとって、これは単なる異国趣味ではありません。
近代国家としてどう生き残るかを互いに見つめる視線でもあったのです。

この時期の交流は、のちの在日ムスリム共同体のような社会的広がりを持っていたわけではありません。
むしろ主軸は、国家間の接触、使節の往来、知識人の観察と記述にありました。
新聞や紀行文の世界では、イスラム圏はまだ遠い対象として語られることが多かったものの、明治日本にとってトルコ回教メッカといった語が地理上の抽象名詞から、具体的な相手を伴うものへ変わっていくのがこの時期です。
日本とイスラム世界の関係史をたどるとき、明治期は共同体形成の時代というより、相手を「知る」入口が開いた時代として位置づけると流れが見えます。

筆者はこの時代の資料を読むたび、近代日本の対外意識が西洋一辺倒ではなかったことに引き戻されます。
日本がイスラム世界と出会う場面は、後年のモスク建設や移住史ほど目立たなくても、外交史と知識史の接点に確かに刻まれていました。
その最初の輪郭を最も鮮やかに可視化したのが、1890年の海難事故でした。

エルトゥールル号事件(1890)の衝撃

1890年、親善使節を乗せたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県沖で遭難します。
帰路についた艦が紀伊大島・樫野埼付近で難破し、多くの犠牲者を出したこの事件は、日本とオスマン帝国の関係に深い印象を残しました。
現地住民が荒天のなかで生存者の救助にあたり、犠牲者を弔ったことは、のちに日土友好の象徴的な原点として語り継がれていきます。

この出来事が持つ意味は、単なる「美談」にとどまりません。
明治日本にとってイスラム世界はまだ遠い存在でしたが、この事故によって、オスマン帝国の人びとは抽象的な異国の住民ではなく、同じ海難に遭い、救助を待ち、弔われる具体的な他者として認識されました。
国家間の外交が、地方の海辺の経験と結びついた点にこの事件の特異さがあります。
大国間の条約や首都での儀礼ではなく、沿岸の村落で交わされた救助と追悼が、長く記憶の芯になったのです。

和歌山県串本町のトルコ記念館と周辺の慰霊碑を訪れると、その記憶が今も風景のなかに保たれていることがよくわかります。
記念館は紀伊大島の樫野埼灯台近くにあり、展示室にはエルトゥールル号の模型、乗員の遺品や遺物、当時の写真資料、トルコから寄贈された品々が並びます。
小規模な館ですが、展示を一つずつ追っていくと、短時間の見学でも事故の重みが静かに伝わってきます。
筆者が現地で強く感じたのは、ここが単なる観光施設ではなく、海難の犠牲者を悼む場所として今も呼吸していることでした。
館内の資料を見たあとに慰霊碑の前へ立つと、友好という言葉が抽象的なスローガンではなく、土地に刻まれた追悼の継続として理解できます。

記念館は1974年に建てられ、現在も串本町が管理しています。
開館時間は9時から17時、入館料は500円です。
樫野埼灯台や慰霊碑まで含めて歩くと、この場所が「事件の現場」であると同時に「記憶の場」でもあることがよく見えてきます。
日土関係を語るとき、エルトゥールル号が繰り返し参照されるのは、国家同士の友好が地域住民の行為によって具体化された、きわめて稀な起点だからです。

初期改宗者と知的ネットワーク

この時代の資料を読むと、近代日本の対外意識が必ずしも西洋一辺倒ではなかったことが明瞭になります。
日本がイスラム世界と出会う場面は、外交儀礼だけでなく沿岸の村落での救助や追悼といった具体的な経験を通じて深まっていきました。
この時期には人数は依然として少なかったものの、旅行者、軍事情報関係者、実業家、知識人らが中東や南アジアへ渡航して現地の宗教や社会に接し、日本国内での関心が徐々に深まっていきました。

その象徴的存在が山岡光太郎です。
山岡はイスラム世界への渡航で知られ、日本人として記録上きわめて早い時期にメッカ巡礼を行った人物として語られます。
1909年にメッカ巡礼を果たしたことは確認できますが、いつ改宗したのかについては史料ごとに書き方がそろっていません。
イスラム名オマルを用いたこと、巡礼を実施したことは押さえられる一方で、改宗年を一点で断定する書き方は避けたほうが実情に合います。
彼の足跡が示すのは、日本人のイスラム理解が書物だけでなく、身体をともなう移動のなかで形づくられたということです。

有賀文八郎も、この初期段階を語るうえで欠かせない名前です。
有賀は実業と宗教活動の双方にまたがる人物で、ボンベイ滞在中にイスラムへ入信したことが確認できます。
こちらも正確な改宗年は資料上そろっておらず、ハッジの履歴も明確には固まっていません。
ただ、南アジアでの接触を通じて日本人がイスラムを受け入れ、その後の日本での定着に関わろうとした事実は鮮明です。
明治末から大正、昭和へつながるイスラム受容の糸をたどると、こうした人物は単独の改宗者というだけでなく、海外渡航、商業、知識交流、宗教実践が重なり合うネットワークの節点として見えてきます。

💡 Tip

山岡光太郎や有賀文八郎の経歴は、改宗年や巡礼歴の細部で史料差があります。明治末から大正初期の日本人ムスリムを考えるときは、「最初の一人」を厳密に決めるより、外交・渡航・知的交流の延長線上で改宗が現れた流れを追うほうが実像に近づきます。

この時代の日本人ムスリムは、まだ共同体を形成するほどの厚みを持っていませんでした。
けれども、後年に神戸モスクや東京モスクへつながる歴史を考えると、明治期の接触は単なる前史ではありません。
国家間の外交、海難事故を通じた感情の共有、そして少数の改宗者が開いた知的回路が重なって、日本とイスラム世界の関係は「遠い異文化」から「具体的に関わる相手」へと変わりはじめていました。

戦間期〜戦時期:タタール人難民、モスク建設、回教政策

タタール人共同体の形成

戦間期に入ると、日本とイスラムの関係は、知識人や渡航者の関心だけでは語れなくなります。
転機になったのは1917年のロシア革命でした。
この革命とその後の混乱を受けて、中央アジア系のタタール人ムスリムが日本へ流入し、神戸や東京に小さな定住拠点をつくります。
明治期には点のように存在していた日本とイスラム世界の接点が、この時期にはじめて「共同体」と呼べる輪郭を持ち始めたのです。

彼らは単に難民として滞在しただけではありません。
商業活動、教育、出版、宗教実践を通じて、都市のなかにムスリムとして生きる場を築きました。
当時の日本社会にとって、イスラムはなお珍しい宗教でしたが、神戸や東京ではタタール人が共同体の核となり、礼拝や相互扶助の基盤を整えていきます。
人数だけを見れば、1931年から1945年の滞日ムスリム人口は500〜700人ほどにすぎません。
それでも、この数百人規模の集住が、日本におけるモスク建設と宗教制度化の出発点になりました。

ここで見えてくるのは、移動する人びとが宗教空間そのものを持ち込んだという事実です。
イスラムは理念として日本に紹介されたのではなく、亡命、避難、交易、生活再建と結びついたかたちで根づいていきました。
当時の人びとにとって、礼拝所は信仰の場であると同時に、言語や出自を共有する仲間とつながる生活の拠点でもありました。
日本におけるイスラム史が戦間期に一段階具体化するのは、この共同体形成があったからです。

神戸モスク(1935)と東京回教礼拝堂

共同体の可視化をもっとも象徴的に示したのが、モスク建設です。
神戸では1935年に神戸ムスリムモスクが建立され、東京では1938年に東京回教礼拝堂、のちの東京モスクが建てられました。
いずれも現在から振り返ればよく知られた存在ですが、当時の在留ムスリム人口が数百人規模だったことを考えると、その建立は数字以上の重みを持っていました。
少人数の共同体が、都市の景観のなかにイスラムの存在を刻み込んだ出来事だったからです。

神戸ムスリムモスクは、港町神戸の国際性とも深く結びついていました。
貿易都市として外国人居留の経験を持つ神戸では、インド系商人やタタール人ムスリムが交わりながら建設の基盤を支えます。
筆者はこの建物を建築史の視点から見るたび、単なる「日本最初期のモスク」という説明だけでは足りないと感じます。
外観にはインド・オスマン折衷と呼びたくなる意匠があり、丸みを帯びたドーム、垂直性を強調するミナレット、アーチの取り方が一つの系譜に収まっていません。
南アジア経由でもたらされたイスラム建築の語彙と、西アジア的なモスク像が神戸の都市風景のなかで重ね合わされており、その混成ぶりに、移住者共同体の履歴そのものが表れています。
異国風という一語では片づけられず、離散したムスリムたちが日本で選び取った「見える信仰のかたち」として読むほうが、この建築の実像に近づきます。

1938年の東京回教礼拝堂もまた、首都東京におけるイスラム共同体の存在を示す施設でした。
こちらもタタール人の活動と深く関係しており、礼拝の場であるだけでなく、都市のなかでムスリムが継続的に集まる拠点として機能します。
神戸が港湾都市の国際交流を背景にしていたのに対し、東京では政治・外交・知識人ネットワークとの距離の近さが際立ちます。
同じモスク建設でも、神戸と東京では立地の性格が異なり、それぞれが別の回路から日本社会と接続していました。

この二つの建築が持つ意味は、礼拝所の確保にとどまりません。
日本人の側から見れば、イスラムは抽象的な外国宗教ではなく、都市の中に実際の建築として現前するものになりました。
ドームやミナレットを備えた建物が街に立つことで、宗教理解は書物や外交文書のレベルを超え、視覚的に経験される段階へ進んだのです。

回教政策という歴史用語の位置づけ

この時期のイスラム理解を語るとき、宗教交流だけで話を閉じることはできません。
日本では当時、回教政策と呼ばれる動きが現れます。
回教は歴史的用語で、現在の日常語として使うのではなく、当時の政策や言説を説明するための呼称です。
この用語が示しているのは、日本の国家機関がイスラムを宗教として理解しようとしただけでなく、対外戦略の一部として位置づけたという事実です。

背景には、対ソ連関係への意識、アジア主義的な発想、そしてイスラム圏との接触を外交・宣伝の資源として用いようとする視線がありました。
タタール人ムスリムの存在は、その文脈でしばしば注目されます。
日本側にとって彼らは、国内の少数宗教共同体であると同時に、ソ連周辺のムスリム社会や広いアジア世界へつながる媒介でもありました。
つまり、戦間期から戦時期のイスラム理解は、信仰の尊重や異文化理解だけで進んだのではなく、地政学的な計算とも結びついていたのです。

もっとも、この政策語だけで当時のムスリムの経験を説明し切ることはできません。
共同体の側には、礼拝し、子どもを育て、言語と習慣を守ろうとする日常の論理がありました。
一方、国家の側には、イスラムを対外関係の文脈で把握しようとする論理がありました。
戦間期〜戦時期の日本におけるイスラム史の特徴は、この二つの論理が同じ空間で交差していた点にあります。
神戸モスクや東京回教礼拝堂は、その交差を最も具体的に示す建築だったと言えます。
宗教施設でありながら、同時に国際政治の視線を集める場所でもあったからです。

戦後日本:小規模共同体から在日ムスリム社会へ

戦後の停滞と再建

敗戦後、日本にあったムスリム共同体は大きく縮みました。
戦間期から戦時期にかけて形成された人のつながりは、引き揚げ、離散、生活基盤の喪失によって細り、宗教施設の維持も容易ではなくなります。
神戸と東京に築かれていたモスクの存在は消えなかったものの、戦後しばらくの日本では、礼拝のために集まれる場所はきわめて限られていました。
いまのように各地にモスクが点在する状況とは隔たりがあり、再建の歩みは小さな共同体が細い糸をつなぎ直すところから始まったのです。

この時期の特徴は、共同体の規模そのものよりも、信仰の火を絶やさなかったことにあります。
前の時代には、移住者や亡命者がモスク建設を通じて存在を可視化しました。
戦後には、それを守り継ぐ営みが前面に出ます。
都市のなかでイスラムが目立つ宗教空間として広がる段階ではまだなく、少数の礼拝者が集まり、学び合い、次の世代へ記憶を渡していく静かな再建期でした。

数字の面から見ても、この停滞は長く続きました。
1969年時点でも外国人ムスリム人口は約1,500人にとどまり、戦後日本のイスラム共同体がまだごく小規模だったことがわかります。
つまり、1980年代以降の可視化は自然発生的に生まれたのではなく、その前段階に、人数の少ない時代を持ちこたえた人びとの蓄積がありました。

日本ムスリム協会と日本人ムスリムの活動

その裾野を保った中心の一つが、1953年に設立された日本ムスリム協会です。
創立時の会員数は47人でした。
この数字は決して大きくありません。
しかし、戦後の混乱がまだ色濃い時代に、日本人ムスリムが主体となって信仰共同体の輪郭を保とうとした事実は重みがあります。
モスクの数が限られ、在日ムスリム人口も少ないなかで、組織があること自体が、学習、交流、宗教実践を継続するための足場になりました。

ここで注目したいのは、日本におけるイスラムの継承が、外国人居住者だけでなく日本人ムスリムの側からも支えられていた点です。
明治以来の個人的な改宗や知的関心が、戦後には団体活動という形で残りました。
礼拝や断食といった実践を共有し、イスラム理解のための文書を整え、共同体を途切れさせない。
その働きは外からは見えにくくても、後の拡大を受け止める受け皿として機能しました。

1960〜70年代に入ると、その受け皿の上に新しい層が加わっていきます。
外国人留学生、商人、外交団関係者が徐々に増え、さらに国際結婚を通じて家庭の内部にイスラムが根づく場面も増えていきました。
人数の増え方は緩やかでしたが、共同体の性格は少しずつ変わります。
戦前のタタール人中心の集住とは異なり、出身地域も滞在目的も多様な人びとが日本社会の中で交わるようになったからです。
1984年には滞日ムスリム人口が約8,000人に達し、戦後の長い停滞期から、再形成の段階へ移っていたことが見えてきます。

この変化は、イスラムが日本社会のなかで見える場所を変えていきました。
かつては港町や首都の限られた結節点に集中的に存在していたものが、大学、企業活動、国際結婚による家族生活のなかへと浸透していきます。
宗教施設の絶対数はまだ少なくても、食事、祝祭、子育て、埋葬、教育といった生活の課題が具体化し、共同体は一時滞在者の集まりから定住の社会へと輪郭を変え始めました。

東京ジャーミイへの継承

そして2000年に新たに東京ジャーミイとして再建されました(一般に再建年は2000年とされます。
出典例:Tokyo Camii 公式サイト そして、公式情報によれば2000年に現在の東京ジャーミイとして再建されました(Tokyo Camii 公式サイトによる)。
筆者が東京ジャーミイを訪れるたびに感じるのは、この場所が礼拝施設であると同時に、地域に開かれた学びの場として機能していることです。
図書室にはイスラムやトルコ文化に関する本が並び、見学者向けには多言語のパンフレットが整えられています。
建築を見に来た人、宗教に関心を持って足を運んだ人、近隣住民としてふらりと立ち寄った人が、同じ空間のなかで静かに情報に触れていく。
その光景に接すると、モスクとは閉じた信仰空間ではなく、地域社会が異文化を学ぶための窓にもなりうるのだと実感します。

この流れは研究・報道で複数の推計が示されており、1999年の全国モスク数は約15カ所、2021年には113〜130超、そして報道系集計では2025年に約160〜164カ所とするものがあります(出典例:Research Summary、JAPAN Forward)。
数の差は「専用モスクのみを数えるか、小規模礼拝所まで含めるか」といった集計範囲の違いによるため、本文では推計の幅がある点を明記しています。
出典例:研究系推計(Research Summary、IMEGS 等)と報道系集計(JAPAN Forward 等)を併記しています。
モスク数の差は「専用モスクのみを数えるか」「小規模な礼拝所まで含めるか」といった集計範囲や時点の違いによるものです。
東京ジャーミイは、その長い時間の層を一つの建築に重ねて見せてくれます。
戦前の東京回教礼拝堂、戦後の縮小した共同体、日本人ムスリムの地道な活動、そして留学生・商人・家族形成を通じた再拡大。
そのすべてが折り重なった先に、現代の在日ムスリム社会があります。
戦後史をたどる意味は、失われた時代を確認することだけではなく、少人数の共同体が守った拠点が、のちに数十万人規模の社会を支える土台になったと理解することにあります。

1980年代以降:移住の拡大とモスクの全国化

1980年代の流入拡大

現代日本のムスリム社会が決定的に姿を変えるのは、1980年代後半のバブル期です。
前節までの段階では、共同体はまだ限られた都市の留学生、商人、日本人ムスリムを中心とする小規模なネットワークでした。
そこに、労働需要の増加、国際貿易の活発化、留学の拡大が重なり、来日の回路が一気に太くなります。

この時期に目立ったのは、イランパキスタンバングラデシュからの流入です。
建設、工場、運輸、雑業といった人手不足の現場が受け皿となり、短期滞在のつもりで来日した人びとが、仕事のつながりを頼って国内各地へ移動していきました。
同時に、中古車輸出や雑貨取引のような小規模貿易も生活基盤となり、港湾都市だけでなく内陸の工業都市にもムスリムの拠点が生まれます。
のちにはインドネシアマレーシアからの留学生や研修生の存在感も増し、共同体の出身地域はさらに多層化しました。

1984年の滞日ムスリム人口は約8,000人でした。
この数字は、1960〜70年代までの小さな共同体から見ると明らかな転換点です。
しかも増加は東京や神戸に集中しただけではありません。
バブル景気の現場は全国に散っていたため、礼拝の必要もまた全国へ拡散しました。
結果として、ムスリムの存在は「港町の歴史」や「首都の外交空間」から離れ、地方工業都市、大学町、流通拠点へと広がっていきます。
当時の人びとにとって、日本は一時的な出稼ぎ先であると同時に、仲間を呼び寄せ、仕事を紹介し合い、宗教実践を続ける生活圏になり始めていました。

家族形成と第二世代の台頭

この拡大が1980年代以前と異なるのは、労働や留学だけで終わらず、家族形成へ進んだことです。
単身の男性労働者や留学生の集まりであれば、礼拝所は最小限でも共同体は維持できます。
ところが、結婚し、子どもが生まれ、家族単位で暮らすようになると、必要になるものは一気に増えます。
礼拝の空間だけでなく、ハラール食品、埋葬、宗教教育、学校との調整、母語と日本語の両立といった課題が、日常の手触りを伴って現れるからです。

この変化は1990年代以降にいっそう鮮明になります。
ムスリム人口は2010年時点で約18.5万人という推計がある一方、2010年末では約11万人とする集計もあります。
差が大きく見えるのは、国籍、在留資格、改宗者、日本国籍取得者、短期滞在者をどこまで含めるかという推計方法の違いによるものです。
それでも、1984年の約8,000人から見れば、2000年代までに共同体の規模が別の段階へ入ったことは明白です。
2019年末には約23万人に達し、もはや一時滞在者の集合としては捉えきれません。

家族形成が進むと、共同体の中心課題も変わります。
子どもが保育園や学校に通えば、給食の内容、ラマダン期の生活リズム、体育や水泳の参加、宗教行事への理解といった具体的な調整が必要になります。
家庭内ではウルドゥー語、ベンガル語、インドネシア語、アラビア語などが使われ、外では日本語が生活の軸になるため、第二世代は複数の文化圏をまたいで育ちます。
ここでモスクは礼拝施設にとどまらず、週末に子どもへクルアーンを教え、日本語で生活相談を行い、母親同士が情報交換する場へと役割を広げました。

筆者が地方都市の民家型の礼拝所を訪ねたとき、その変化は建物の外観以上に運営の細部に表れていると感じました。
住宅地の一角にある小さな礼拝所でしたが、入口には礼拝時間と駐車時の注意が日本語で掲示され、金曜礼拝の前後に人が集中しないよう到着時刻まで細かく分けていました。
靴の置き方や屋外での立ち話にも気を配り、近隣への挨拶が自然に組み込まれていたのです。
そこには「宗教施設を置く」という発想より、「地域の中で暮らしを続ける」という感覚がありました。
日本のムスリム社会が生活共同体へ変わったとは、こうした日々の調整が積み重なった状態を指しています。

第二世代の台頭は、日本におけるイスラムの見え方も変えました。
親世代にとって日本は移住先でしたが、日本で生まれ育つ子どもたちにとっては最初から生活の基盤です。
彼らは学校では日本語で学び、家庭やモスクでは親の文化と宗教に触れます。
この往復の中で、イスラムは「海外から持ち込まれた信仰」ではなく、日本社会の内部で次世代へ継承される宗教として位置づいていきました。

モスク数の推移と全国化

共同体の変化を最も視覚的に示すのが、モスク数の増加です。
1999年の全国モスク数は15カ所でした。
そこから増加は加速し、2021年3月には113カ所、同年の別集計では130超に達しています。
2025年7月には164カ所となり、立地は約140自治体に広がりました。
数の違いは、独立した本格モスクのみを数えるか、礼拝機能を持つ施設をどこまで含めるかという集計範囲の差によるものですが、流れそのものは明快です。
モスクはもはや一部の大都市に限られた存在ではありません。

分布の広がりを見ると、まず東京神奈川千葉埼玉の首都圏で集積が進み、それに続いて愛知静岡岐阜群馬栃木茨城など、製造業や物流の拠点を持つ地域に礼拝所が増えていきました。
さらに大学のある地方都市や、中古車貿易・農業・技能実習のネットワークがある地域でもモスクが設けられます。
建物の形態も一様ではなく、ドームとミナレットを備えた新築の専用施設だけでなく、雑居ビルの一室、倉庫の改装、民家の転用といった形で地域に根を下ろしてきました。

人口の面でも拡大は対応しています。
2019年末に約23万人だったムスリム人口は、2024年初頭には約35万人、2024年末には約42万人、総人口比で約0.3%に達しました。
こうした増加にともない、モスクは礼拝の場であるだけでなく、結婚式、葬送、断食明けの食事、子どもの学習、就労相談、多言語での生活情報共有を支える地域拠点になっています。
戦前の神戸モスクや東京モスクが象徴的な存在だった時代から、現代では全国各地の小さな礼拝所まで含めて、日本のイスラム空間が面的に広がったと捉えるほうが実態に近いでしょう。

数字の伸びだけを見れば、これは宗教施設の増加です。
しかし歴史の流れとして見たとき、そこにあるのは移住の定着、家族の形成、第二世代の成長、地域社会との折り合いという生活史の蓄積です。
モスクの全国化は、ムスリム社会が日本で「滞在する人びとの集まり」から「暮らしを営む共同体」へ変わったことを、建築と地理の両面から映し出しています。

2024〜2026年の最新動向:人口増加と共生の課題

人口推計の幅と読み方

2024年以降の動きを見ると、日本のムスリム人口は増加局面に入ったことがはっきりしています。
もっとも、ここでまず押さえたいのは、最新値には幅があるという点です。
2024年初頭には約35万人という研究推計があり、2024年末には約42万人、総人口比で約0.3%という報道値も出ています。
差が生まれるのは、在留資格ベースで積み上げるのか、世帯形成や日本国籍取得者、日本人改宗者、子ども世代まで含めて推計するのかで、母集団の取り方が異なるからです。
数字がぶれているのではなく、何を「日本のムスリム人口」とみなすかの定義が違う、と読んだほうが実態に近いです。

この数値の伸びは、前節までに見た1980年代以降の定住化の延長線上にありますが、2024〜2026年の局面では、量の増加がそのまま生活インフラの不足を可視化する段階に入っています。
単身滞在者の増加だけなら礼拝所と食品店の整備である程度は回りますが、家族世帯や第二世代が増えると、学校、職場、埋葬、観光、地域行事との接点が一気に広がるからです。
日本人改宗者、外国出身者、その子ども世代が同じ共同体の中にいる現在の姿は、戦前のごく小規模な共同体とは質的に異なります。

同時に、ここで注意したいのは、人口増加をそのまま不安の言葉に結びつけないことです。
日本のムスリム社会は出自も言語も職業も一様ではありません。
日本人として育って改宗した人もいれば、留学生として来日した人、技能職や研究職として働く人、日本で生まれた第二世代もいます。
したがって、イスラムを単一の集団として語ったり、イスラム=過激主義と短絡したりすると、現実の多様性を見失います。
今日本で見えているのは、思想の一枚岩ではなく、生活条件の異なる人びとが宗教実践をどう日常の中に位置づけているかという問題です。

礼拝空間と観光対応

礼拝空間の整備は、その変化をもっとも目に見える形で示しています。
モスク数は2025年7月時点で約160〜164に達し、立地は約140自治体に広がっています。
ここで注目すべきなのは、独立したモスクの増加だけではありません。
空港、商業施設、大学、公共施設で礼拝室が整えられる例が少しずつ増え、礼拝のために都市を大きく迂回しなくてよい場面が増えてきました。

筆者は空港や自治体の公共施設で礼拝室の表示を実地に見るたび、整備の質が一段上がったと感じます。
入口に男女別利用や土足禁止の案内があり、室内にはメッカの方向を示すキブラ表示がさりげなく付され、壁際には礼拝時間の目安を記した掲示が置かれていることがあります。
単に「祈れる部屋」を用意したのではなく、礼拝という行為の流れを理解した設計になっているのです。
この細部があるだけで、利用者は自分が想定された存在だと受け取れます。

観光分野でも同様の変化が起きています。
訪日客の受け入れでは、礼拝のために一時的に身を整える空間、食事の選択肢、移動導線の分かりやすさがそろって初めて、滞在全体が円滑になります。
空港で礼拝できても、移動先の商業施設や観光地で何も対応がなければ、実際の行動範囲は狭まります。
そのため、礼拝室の整備は宗教施設の話にとどまらず、観光政策や地域の受け入れ体制ともつながっています。
JNTOなどが整理している訪日ムスリム向けガイドラインが参照されるのも、この文脈の中です。

もっとも、礼拝空間が増えればそれで解決という話でもありません。
モスクの新設や既存礼拝所の利用者増加に伴い、近隣との調整はむしろ日常的な課題になります。
金曜礼拝の時間帯に人と車が集中すれば、住宅地では駐車や通行の問題が生じますし、靴の置き方、屋外での会話、ゴミ出しのルールといった細部が、地域との信頼関係を左右します。
宗教実践そのものより、生活マナーの調整のほうが摩擦の原因になる場面は少なくありません。

土葬墓地・学校職場での配慮

共生の論点として、土葬墓地の問題はとくに象徴的です。
日本の多くの地域では火葬が前提になってきましたが、イスラムでは土葬を望む人が多く、宗教実践と既存制度の間にずれが生まれます。
墓地の確保をめぐっては、候補地の選定、自治体条例との整合、近隣住民の理解といった段階ごとに調整が必要になります。
ここでは宗教の自由だけを掲げても前へ進まず、公衆衛生、土地利用、地域感情をどう接続するかが問われます。

この問題が難しいのは、埋葬が観念の話ではなく、家族の死という切迫した局面で現れるからです。
生前には見えにくかった制度の壁が、看取りや葬送の場面で一気に立ち上がります。
海外への遺体搬送を選ぶ家族もいますが、日本で暮らし、日本で子どもを育ててきた人びとにとって、死後だけ国外へ戻るという選択は、生活の実感と必ずしも一致しません。
定住化が進んだ社会ほど、土葬墓地の問題は先送りできなくなります。

学校や職場での配慮も、同じく日常の領域で積み重なっています。
ラマダン期の断食に入る生徒や社員に対して、体調管理の理解、昼休みの過ごし方、礼拝時間の確保、会食や懇親会での食事選択といった具体的な調整が求められます。
ここでは特別扱いか否かという二者択一ではなく、既存の校則や就業規則の中にどこまで柔軟性を持たせるかが焦点になります。
礼拝のための短い離席、断食中の体育活動への配慮、給食メニューの代替といった点は、制度の大改造というより、運用の丁寧さで差が出る部分です。

地域摩擦として表に出やすいのも、実はこうした生活接点です。
宗教そのものへの反発というより、駐車、音、ゴミ、行事時間帯への認識のずれが不信感を生み、それが宗教的な違和感として語られることがあるからです。
逆にいえば、掲示、説明、近隣への挨拶、学校や職場での対話が積み重なると、問題は宗教対立ではなく生活調整の範囲へ戻っていきます。
日本での共生は、理念よりも先に、こうした具体の手順の上で組み立てられています。

ハラール対応の現在地

ハラール対応も、2024〜2026年の日本社会を映す論点の一つです。
現在の特徴は、「全国で均一に整った」というより、観光・空港・大都市圏・大学周辺・国際業務の現場から先に整備が進み、地域差を残したまま広がっていることです。
レストランや宿泊施設で豚肉・アルコール不使用の表示を出す例、専用メニューを用意する例、食材レベルで対応する例が混在しており、ハラール認証の有無だけで実態を測ることはできません。

それでも、観光とビジネスの現場では前進が見えます。
訪日客向けには、礼拝場所の案内、食事の選択肢、空港から宿泊先・観光地までの導線をまとめて示す発想が定着しつつあります。
商談や国際会議の場面でも、会食で何が食べられるのか、礼拝の時間帯をどう確保するのかを事前に織り込む運営が増えました。
これは宗教理解の啓発というより、受け入れの基本インフラが整い始めたという変化です。

一方で、ハラール対応を表面的なラベルで済ませると、かえって齟齬が生まれます。
ムスリムの実践は一様ではなく、厳格な認証を重視する人もいれば、原材料表示と調理環境を確認して判断する人もいます。
したがって、対応の質を左右するのは、単に「ハラール」と掲げることより、食材、調味料、調理器具、アルコールの扱いをどこまで明確に説明できるかです。
観光業でも小売でも、信頼を生むのは表示の派手さではなく、説明の具体性です。

この点でも、日本のムスリム社会の多様さを見落とさない視線が欠かせません。
外国からの旅行者への対応と、日本で暮らす住民としてのムスリムへの対応は重なる部分もありますが、必要とされるものは同じではありません。
旅行者には導線の明快さが求められ、定住者には日常的に利用できる食環境や学校・職場との接続が求められます。
2024〜2026年の動向は、その両方が同時進行しているところに特徴があります。
人口の増加は数字として表れますが、共生の成否は、礼拝、埋葬、食事、学び、働く場という生活の細部で測られていきます。

日本とイスラム教の歴史から見えてくること

4つの軸で読み解く通史の意義

日本とイスラム教の関係を通史として見るとき、軸は一つでは足りません。
少なくとも外交、思想、移民、地域社会という4つの軸を重ねることで、はじめて全体像が見えてきます。
明治期には、オスマン帝国との接触やエルトゥールル号事件に象徴されるように、関係の入口はまず外交でした。
同時に、山岡光太郎や有賀文八郎のように、イスラム世界を知的対象として受け止め、自ら接近した人びとが現れ、思想と個人経験の軸が立ち上がります。
当時の人びとにとってイスラムは、身近な隣人の宗教というより、帝国日本が外の世界をどう理解するかを試す鏡でもありました。

戦間期に入ると、主役は知識人だけではなくなります。
ロシア革命後に流入したタタール人共同体が神戸や東京で生活の基盤を築き、国家もまた「回教政策」というかたちでイスラムを戦略的に扱いました。
ここでは思想と外交に加えて、移民と制度が前面に出ます。
神戸モスクや東京モスクは宗教施設であると同時に、亡命、商業、教育、国家政策が交差する空間でした。
通史の面白さは、同じ「日本とイスラム教」という題名の下でも、時代ごとに中心人物も争点も入れ替わることにあります。

戦後になると、共同体は小規模に再編されますが、関係そのものが消えたわけではありません。
日本人改宗者の活動、少数の留学生や外交関係者、限られた礼拝空間の維持が続き、細い線のように歴史がつながれました。
そして1980年代以降は、外国人労働者、留学生、国際結婚による家族、第二世代の子どもたちが加わり、移民と地域社会の軸が中心へ移っていきます。
ここでイスラムは「遠い文明」や「政策対象」から、学校、職場、商店街、墓地、住宅地と接する日常の存在になりました。

筆者が神戸モスクと東京ジャーミイを続けて訪ねたとき、その違いは年表以上に雄弁でした。
前者では、戦間期の建築が都市の記憶として受け継がれていることが強く感じられます。
後者では、美しい礼拝空間に加えて、見学者、地域住民、学びの場としての開放性が前面に出ていました。
どちらもモスクですが、建築の継承のされ方も、地域との接点の作り方も同じではありません。
この差が、そのまま日本におけるイスラムの歴史段階の違いを映しています。

時代比較で把握する日本社会の変化

通史を現代的な意味へ接続するなら、各時代を「イスラム側の変化」だけでなく、「日本社会の受け止め方の変化」として比較する視点が欠かせません。
明治期は外交と知識人が中心で、イスラムは外部世界を理解するための対象として現れました。
戦間期から戦時期にかけては、タタール共同体の存在と国家政策が重なり、共同体形成と統治の論理が前景化します。
戦後は小規模な再編の時代で、見えにくいながらも関係の火が保たれました。
1980年代以降になると、論点は生活共同体へ移り、モスクは礼拝所であるだけでなく、食、教育、相談、子育て、地域調整の拠点として機能するようになります。

この流れが示しているのは、日本社会はもともと単一で固定されたものではなく、制度、地域、世代という複数の層で姿を変えてきたということです。
中央政府の外交課題として見えていたイスラムは、都市部では労働と教育の問題になり、地方では墓地や礼拝所の受け入れ、観光地では食事対応や案内表示の問題として現れます。
さらに、第一世代の移住者にとって切実だった論点と、日本語で育つ第二世代が向き合う学校生活や自己認識の課題も同じではありません。
日本社会の側もまた、全国一律に変化したのではなく、地域ごと、制度ごと、世代ごとに異なる速度で組み替わってきました。

だからこそ、日本とイスラム教の歴史は「接触があった」という事実だけでは終わりません。
外交の歴史として始まり、思想史として深まり、移民史として厚みを持ち、地域社会の歴史として足元へ降りてきたとき、この通史は現代日本そのものを映す鏡になります。
教育の現場で何を教えるのか、埋葬をめぐる制度をどう整えるのか、礼拝所と近隣住民の関係をどう調整するのかという課題は、突発的に現れた新問題ではありません。
時代ごとに主役と論点を変えながら続いてきた問いが、いま生活の密度の高い場所で表面化しているのです。

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遠藤 理沙

中東・地中海地域の文明史を専門とし、イスラム圏10カ国以上のフィールドワーク経験を持つ。モスク建築や幾何学文様など、イスラム美術・文明の魅力を伝えます。

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