歴史・文明

ムガル帝国とは|インドのイスラム王朝の興亡

更新: 遠藤 理沙
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ムガル帝国とは|インドのイスラム王朝の興亡

ムガル帝国は、1526年に中央アジア出身のバーブルが第一次パーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝最後のロディー朝を破ってデリーに築いたイスラム王朝である。名はペルシア語でモンゴルを意味する語に由来し、ティムールとチンギス・ハンの血筋を引くバーブルの出自も、この王朝の性格をよく示しています。

ムガル帝国は、1526年に中央アジア出身のバーブルが第一次パーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝最後のロディー朝を破ってデリーに築いたイスラム王朝である。
名はペルシア語でモンゴルを意味する語に由来し、ティムールとチンギス・ハンの血筋を引くバーブルの出自も、この王朝の性格をよく示しています。

建国直後はフマーユーンの亡命もあって揺れましたが、帝国を実質的に固めたのは第3代アクバルでした。
1564年のジズヤ廃止やラージプート諸侯との婚姻、官位制度と税制の整備は、多数派のヒンドゥー教徒社会をイスラム王朝がどう統治するかという難題への答えだったのです。

タージ・マハルを初めて見たとき、イスタンブールやウズベキスタンで撮りためたティムール朝建築の写真がふと重なりました。
中央アジアで育った意匠がアーグラに届き、さらにウルドゥー語や細密画へと広がっていく流れをたどると、ムガル帝国は戦争の歴史であると同時に、文化が土地を越えて受け継がれる物語でもあるとわかります。

ムガル帝国とは何か|インドを統べたイスラム王朝の全体像

項目 内容
名称 ムガル帝国
成立 1526年、バーブルが建国
滅亡 1857年、バハードゥル・シャー2世の退位で名実ともに終焉
性格 インドのイスラム王朝
存続 約331年
主要人物 バーブル、フマーユーン、アクバル、ジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブ

ムガル帝国は、1526年にバーブルが建国し、1857年に滅亡したインドのイスラム王朝です。
約331年という長い存続は、単なる征服王朝ではなく、北インドの支配秩序を何世代にもわたって組み替えた存在だったことを示しています。
世界史の授業で最初にこの帝国を学んだとき、皇帝名、デリー・スルタン朝、オスマン帝国が頭の中で混ざって挫折しかけた経験があります。
だからこそ、まず建国年・建国者・滅亡年を固定しておくと、その後の人物関係がずっと追いやすくなります。

ムガルという名前の由来とティムール・チンギス両系譜

『ムガル』はペルシア語でモンゴルを意味する語に由来し、バーブルが父方でティムール、母方でチンギス・ハンの血を引いたことを反映しています。
名前の由来を知ると、この王朝がインドだけで完結した勢力ではなく、中央アジアの遊牧帝国の系譜を背負っていたと見えてきます。
アーグラ城やデリーの史跡を歩くと、後代の皇帝が同じ場所に増改築を重ねた痕跡がはっきり残っていて、系譜の重なりは石の上にも刻まれていると感じます。

この出自は、単なる血統の誇示ではありません。
ティムールとチンギス・ハンの名を引き受けることで、バーブルは征服者としての正統性を語り、同時に広域帝国を運営できる家系だと印象づけました。
ムガル帝国を理解するうえでは、インド的な王朝名として眺めるだけでは足りず、ユーラシアの移動帝国が北インドで定着した結果として見る視点が欠かせません。

デリー・スルタン朝からムガル帝国へのつながり

ムガル帝国は、北インドを支配したデリー・スルタン朝の後を継いで成立しました。
インドにイスラム政権が現れたのはムガルが最初ではなく、むしろ先行する複数のイスラム王朝が築いた行政・軍事・都市文化の上に、ムガルが集大成を築いた形です。
第一次パーニーパットの戦いでバーブルがデリー・スルタン朝最後のロディー朝を破ったことは、新しい王朝の始まりであると同時に、既存の北インド秩序を引き継いで再編する転機でした。

筆者が現地でデリーの史跡を見たときも、この連続性は印象的でした。
城壁や礼拝空間は一代で完成したのではなく、支配者が替わるたびに加筆され、修復され、再解釈されていました。
ムガル帝国を一人の偉人の物語として読むと見落としがちですが、実際にはデリー・スルタン朝から続く政治技術と空間支配の長い継承線の上に成り立っています。

6人の主要皇帝でたどる帝国の見取り図

記事全体で追う主要皇帝は、バーブル、フマーユーン、アクバル、ジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブの6人です。
順番を先に押さえておくと、各章がどの時代に対応するのかが見通しやすくなります。
とくにムガル帝国は、初期の不安定な建国期から、アクバルによる制度整備、ジャハーンギール期の文化成熟、シャー・ジャハーン期の建築的繁栄、アウラングゼーブ期の最大版図と動揺へと、性格がはっきり変化していきます。

皇帝時代の位置づけ見るべき焦点
バーブル建国者1526年の建国と第一次パーニーパット
フマーユーン継承の試練一時的な亡命と帝国回復
アクバル制度の確立マンサブダール制、ザブト制、融和政策
ジャハーンギール文化の成熟細密画の発展
シャー・ジャーン建築の頂点タージ・マハルと宮廷文化
アウラングゼーブ領土の最大化と転機約400万平方キロメートル、人口推計1億5800万人、衰退の起点

1700年頃の最大版図は約400万平方キロメートル、人口は推計1億5800万人に達し、当時の世界経済でも屈指の規模でした。
つまりムガル帝国は、単なる北インドの地域王朝ではなく、交易、税制、軍事、建築、言語形成までを束ねた巨大な統治体制だったのです。
この見取り図を持って読むと、皇帝ごとの違いが単なる人柄の差ではなく、帝国の段階的な変化として見えてきます。

建国と基礎固め|バーブルとフマーユーンの時代

1526年、中央アジア出身のバーブルは第一次パーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝最後のロディー朝の王イブラーヒームを破り、デリーへ入城してムガル帝国の出発点を開きました。
父方でティムール、母方でチンギス・ハンの血を引くこの君主が、少数の軍勢で大軍を退けたことは、単なる勝利以上の意味を持ちます。
火器と機動的な戦術を組み合わせた戦いは、中央アジアの軍事技術がインドに移された瞬間でもありました。
筆者がウズベキスタンのフェルガナ地方を歩いたとき、バーブルの故郷が肥沃で美しい谷であることが実感でき、彼が『バーブル・ナーマ』でインドの暑さや風土への戸惑いを綴った理由も腑に落ちました。

パーニーパットの戦いと火器を使った勝利

第一次パーニーパットの戦いは、ムガル帝国の建国そのものを物語る場面です。
バーブルが勝ったのは、兵力の多寡だけでは説明できません。
大砲や鉄砲を使い、敵の正面を受け止めながら側面や機動で崩す戦術が、ロディー朝の重厚な軍勢を押し返したのです。
ここで重要なのは、インド亜大陸の政治史に、中央アジア由来の戦争技術がはっきり接続されたことにあります。

バーブルの出自も、この勝利の意味を深めています。
父方でティムール、母方でチンギス・ハンの血を引く中央アジア出身の君主として、彼は征服者の系譜を自覚していました。
ムガルという名がモンゴルを意味する語に由来するのも、その背景と響き合います。
デリー・スルタン朝の終わりを告げた一戦は、王朝交代の記録であると同時に、遠い草原世界の軍事文化が北インドの秩序を塗り替えた転機でした。

回想録『バーブル・ナーマ』が伝える初代皇帝の素顔

バーブルを歴史上の征服者としてだけでなく、生身の人物として伝えるのが『バーブル・ナーマ』です。
自らの生涯を回想録に残した君主は多くありません。
戦場の様子だけでなく、木々の匂い、土地の風、心の揺れまで書き留めたことで、初代皇帝は遠い勝者ではなく、迷いも観察眼も備えた一人の人間として立ち上がります。

この一次史料が示すのは、帝国の始まりが英雄譚だけではないという事実です。
バーブルはインドの自然を新しい環境として受け止めつつ、そこに自らの記憶と感情を重ねました。
フェルガナ地方の豊かな谷を見た経験があると、彼が新天地の暑さにとまどった感覚は、抽象ではなく身体感覚として理解できます。
回想録が残っているからこそ、建国の瞬間にいた人物の息づかいまで、今に届いているのです。

フマーユーンの亡命と王朝復活までの空白期

二代フマーユーンの治世は、建国の勢いをそのまま安定に変えるには至りませんでした。
アフガン系のシェール・シャー・スールが台頭すると、フマーユーンは敗れて一時ペルシアへ亡命します。
帝国が一度ほぼ失われたこの事実は、初期ムガルがいかに脆い土台の上に立っていたかをはっきり示しています。
バーブルの勝利が鮮烈であったほど、その後の揺らぎは際立ちます。

それでもフマーユーンは1555年にペルシアの支援を得て帝国を回復しましたが、翌年には事故死しました。
筆者がデリー近郊のフマーユーン廟を見学したとき、亡命と復活を経た皇帝の墓が、のちのタージ・マハルの原型とされる端正な建築であることに驚かされました。
空白と再興を刻んだこの墓は、帝国の連続性を静かに語っています。
次代アクバルが幼くして即位し、本格的な安定期へ進んでいく伏線は、まさにここにあります。

黄金期を築いたアクバル|宗教融和と統治機構

アクバルの治世が「黄金期」と呼ばれるのは、軍事征服の成功だけでなく、宗教融和と統治機構の再設計を同時に進め、帝国を長く持続する仕組みに変えたからです。
13歳で即位した第3代アクバルは、半世紀近い治世のなかでムガル帝国を一過性の征服王朝から制度的な国家へ押し上げました。
ファテープル・シークリーの遺構に立つと、その政治が宮廷の理念ではなく空間として刻まれていたことが伝わってきます。
諸宗教の学者を集めた信仰の館イバーダト・ハーナの跡は、融和が構想だけで終わらなかった証拠だと感じられました。

ジズヤ廃止とラージプート諸侯との婚姻同盟

アクバル統治の核心にあったのは、数の上で多数を占めるヒンドゥーを敵に回さないことでした。
1564年に非ムスリムへの人頭税ジズヤを廃止したのは、単なる寛大さの演出ではなく、支配の摩擦を減らす現実的な選択です。
ヒンドゥー教徒の登用を進め、ラージプート諸侯との婚姻同盟を結んだことで、征服された側を帝国の支え手へと組み替えていきました。
宗教差をそのまま政治的対立に変えない、この転換が安定の土台になったのです。

研究の過程でファテープル・シークリーのイバーダト・ハーナの跡を歩いたときも、同じ感覚を覚えました。
あの場所は、議論のための建物である以上に、異なる信仰が同じ帝国の内部に置かれていたことを示す記念碑です。
融和は美辞麗句ではなく、宮廷・建築・婚姻を通じて繰り返し可視化されていました。
ラージプートとの結びつきは、その象徴的な最前線だったと言えるでしょう。

マンサブダール制とザブト制が支えた中央集権

制度面での柱がマンサブダール制でした。
官位を数値で序列化し、最低10から最高7000までの官位に応じて俸禄と軍役を定める仕組みは、出自ではなく能力と忠誠で人を配置する発想に立っています。
研究で官位リストを読み解いたとき、ヒンドゥーのラージプート貴族とイスラムの将軍が同じ序列表に並んでいることに気づき、融和が感情論ではなく制度として徹底されていた事実に驚かされました。
土地に結びついた従来の封建制とは異なり、中央が人材を直接把握するからこそ、帝国は広域を一つの秩序にまとめられたのです。

制度仕組み帝国に与えた効果
マンサブダール制官位を10〜7000の数値で序列化し、俸禄と軍役を連動出自を越えた登用と中央集権の強化
ザブト制土地を測量し、収穫を調査して税率を標準化歳入の安定と財政の見通しの確保

財務官トーダル・マルが整備したザブト制も、同じ発想で帝国を支えました。
土地を測量し、収穫を調べ、税率を標準化することで、徴税は恣意性から離れ、財政は予測可能になります。
安定した歳入があってこそ、宮廷文化や建築事業、軍事維持に余力が生まれる。
繁栄は偶然ではなく、数字で管理された土地と人の上に成り立っていました。

ディーニ・イラーヒーに見るアクバルの宗教実験

晩年のアクバルは、さらに一歩進んで宗教の対話そのものを探究しました。
イスラムや他宗教の要素を取り入れたディーニ・イラーヒーを唱えたのは、既存宗教を置き換えるためというより、諸宗教の背後にある真理を見極めようとした試みとみるべきです。
信奉者は19人程度にとどまり、短命で終わりましたが、そこで示されたのは権力者としての計算だけではありませんでした。
理解し合える範囲を広げようとした知的な執念が、そこにはありました。

この宗教実験は、アクバルの統治全体を理解する手がかりにもなります。
ジズヤ廃止、ラージプートとの婚姻同盟、マンサブダール制、ザブト制は別々の政策ではなく、異なる共同体を一つの帝国に束ねるための連続した設計でした。
寛容は理念で終わらず、制度と財政にまで降りていたのです。
だからこそ、アクバルの時代はムガル帝国の黄金期として記憶されているのでしょう。

文化の最盛期とタージ・マハル|ジャハーンギールとシャー・ジャハーン

タージ・マハルは、ムガル帝国が文化の面で到達した高みに、ひと目で触れられる建築です。
第5代シャー・ジャハーンの治世に1632年着工したこの霊廟は、妃ムムターズ・マハルへの追悼であると同時に、帝国の富、美意識、技術力をひとつに束ねた表現でした。
白大理石が朝日に染まって白から薔薇色へ移ろう瞬間に立つと、写真では拾えない透明感があり、シャー・ジャハーンの審美眼の凄みが実感できます。

シャー・ジャハーンとタージ・マハルが象徴するもの

タージ・マハルは建築家ウスタード・アフマド・ラーホーリーが主導し、2万人以上を動員して築かれました。
白大理石に貴石を象嵌する精緻な装飾、左右対称の構成、植物文様の連続は、ただの豪奢さではなく、秩序そのものを美として見せる設計です。
死者を悼む霊廟でありながら、完成した姿が静謐な均衡を保っているのは、宮廷文化が到達した統制の感覚を示しているからでしょう。

この建物が世界遺産として最高峰の評価を受けるのは、技巧が細部に閉じず、全体の構想と結びついているためです。
近くで見ると石の象嵌が繊細で、遠くから眺めるとシルエットが端正に立ち上がる。
実際に早朝のアーグラで見ると、大理石は光を吸って返すので、素材そのものが生きているように感じられます。
そうした体験が、シャー・ジャハーン時代の建築を単なる記念碑ではなく、帝国が自らの成熟を形にした到達点だと教えてくれます。

ムガル絵画とインド・イスラム建築の融合様式

ジャハーンギールの時代には、アクバルの寛容路線と芸術保護が受け継がれ、宮廷を中心にムガル絵画(細密画)が黄金期を迎えました。
政治の緊張を前面に出す章ではなく、経済的安定を背景に芸術が花開いた時代として見ると、その意味がよく分かります。
博物館で細密画を間近に見ると、数センチ四方に何十人もの人物と草花が描き込まれていて、宮廷工房が国家事業として絵画を支えていた厚みに気づかされます。

ムガル文化は、ペルシア・中央アジア・インド在来の要素が融合したインド・イスラム文化として独自の様式を確立しました。
建築ではドームやアーチにその融合が表れ、細密画では構図や色使いの中に異なる文明の記憶が折り重なります。
ここで起きたのは、外来文化の単純な移植ではありません。
複数の伝統が出会い、互いを変えながら新しい美を生んだ、文明交流の具体例です。
だからこそ、この時代の作品はインド史だけでなく、ユーラシア全体の芸術史に置いても読む価値があります。

現代に続く遺産としてのウルドゥー語と宮廷文化

文化の遺産は建物や絵画に限りません。
この時代に軍隊や市場の共通語として、ペルシア語と北インドの口語が混交したウルドゥー語が形成されました。
帝国の広い領域で異なる出自の人々が接触するなか、通じる言葉が必要だったことが、その成立を後押ししたのです。
言語が混ざり合って生まれたという事実は、ムガル帝国が多様性を抱えた統治体だったことをそのまま映しています。

しかもウルドゥー語は、宮廷の記憶を閉じ込めたまま終わりませんでした。
現代のパキスタン国語、そしてインドの主要言語の一つへと続いているからです。
文化遺産が過去の展示品ではなく、今も会話や文学の中で生きていると分かると、ムガル帝国の文化史は急に近いものになります。
タージ・マハル、ムガル絵画(細密画)、インド・イスラム建築様式、ウルドゥー語の成立は、いずれも帝国の栄華を飾るだけでなく、その美と交流が現代へ手渡された証しだと言えるでしょう。

最大版図と転換点|アウラングゼーブの統治

アウラングゼーブは1658年に兄弟との後継争いを制して即位し、約半世紀にわたってムガル帝国を率いました。
版図は約400万平方キロメートルに達し、地図の上では帝国が頂点にいた時代です。
けれども、その拡大は安定の完成ではなく、宗教政策と戦争が内部の緊張を膨らませた転換点でもありました。

領土が最大に達した皇帝という評価

アウラングゼーブの統治を語るとき、まず押さえるべきなのは、領土を最大化した皇帝としての顔です。
デカン地方への遠征を重ねることで、ほぼ全インドを支配下に置いた事実は重い意味を持ちます。
ムガルの版図がここまで広がったのは、彼の軍事的執念と行政統制の強さがあったからで、同時にその拡張が帝国の限界をも露わにしました。

ただし、彼の評価はそこで割れます。
史料を読み比べると、アウラングゼーブを「暴君」とみる見方と、「敬虔で質素な統治者」とみる見方が並び立つのです。
華美を好まず、厳格なスンナ派の信仰に従って宮廷を律した姿は、統治者としての禁欲を示す半面、融和より規律を優先する政治姿勢でもありました。
筆者がデカン高原のマラーター由来の山城を訪ねたときも、急峻な地形に砦が連なる光景を前に、なぜ彼の大軍が長年にわたり制圧しきれなかったのかを、机上ではなく地形そのものから実感しました。

ジズヤ復活と宗教融和路線の転換

アウラングゼーブがムガル史で特に大きく位置づけられるのは、1679年にジズヤを復活させた点です。
非ムスリムに対するこの課税は、アクバル以来続いてきた融和路線を明確に転換させました。
厳格なスンナ派統治を掲げる彼にとっては、信仰と統治を一致させる措置だったのでしょうが、帝国の側から見れば、異教徒を包摂してきた均衡を崩す合図でもありました。

ここで重要なのは、宗教政策が単なる理念では終わらなかったことです。
ジズヤ復活はヒンドゥー諸勢力の反発を招き、帝国の結束をじわじわと緩めました。
支配者が信仰の純化を進めるほど、周縁にいた勢力は「自分たちはこの帝国にどう位置づけられるのか」を問い直すようになります。
寛容を緩めた瞬間、統合のための接着剤が失われた、という見方が成り立つのです。

デカンの泥沼とマラーター台頭の始まり

宗教的不寛容は、マラーター王国をはじめとするヒンドゥー勢力の抵抗を激化させました。
デカン遠征はその反発と重なって長期化し、戦場は決戦の場というより、消耗戦の連鎖へと変わっていきます。
大軍を動かせば勝てるという単純な構図ではなく、山地の砦とゲリラ的な襲撃が帝国軍を少しずつ削っていきました。

この局面では、領土最大化の代償がはっきり見えます。
兵站は伸び、財政は圧迫され、軍は常にどこかで出血している状態になりました。
アウラングゼーブの個人能力があったからこそ帝国は保たれましたが、その統治が長引くほど、内部には疲労と不満が蓄積していきます。
彼の死によってその緊張が一気に外れ、後継者の代で分裂へ傾く伏線は、まさにこのデカンの泥沼の中で張られていたのです。

衰退と滅亡|地方勢力の独立から1857年まで

1707年にアウラングゼーブが死ぬと、ムガル帝国の中心は急速にゆらぎました。
約50年のあいだに皇帝が次々と交代し、その多くが数年、あるいは数か月で廃位や殺害に追い込まれたため、名門王朝の内部でさえ統治の継続性が保てなくなっていきます。
かつて広大な版図をまとめ上げた帝国は、王位そのものが不安定になることで、地方を押さえる力を失っていきました。

アウラングゼーブ死後の皇帝交代の混乱

アウラングゼーブ死後の混乱は、単なる宮廷内の権力争いではありません。
皇帝が短命で入れ替わる状況は、命令が末端まで届かないことを意味し、軍事、徴税、裁判のどれもが揺らぎました。
中央が自らの権威を守れなくなれば、地方の有力者は「帝国に従う理由」を失います。
ムガル帝国の衰退は、まさに統治の骨組みが先に崩れた結果だったのです。

デリーの赤い城、ラール・キラーを訪れたとき、宮殿がかつて世界経済の中心の一角を担っていたという説明以上に、建物の転用の歴史が強く残りました。
大反乱ののちにイギリス軍の兵舎へ変えられた空間は、権力の座が居場所ごと奪われたことを物語っています。
石造りの壁は残っても、そこに宿っていた帝国の時間はすでに別の支配に接収されていたわけです。

ナーディル・シャー侵攻と地方勢力の自立

1739年、イランのナーディル・シャーがデリーを略奪した事件は、ムガル帝国の威信を決定的に傷つけました。
多数の市民が殺され、宝物『クジャクの玉座』まで奪われたことで、皇帝の権威は「守られているもの」から「奪われるもの」へと変わってしまいます。
博物館で『クジャクの玉座』のレプリカや関連史料を見たとき、一夜にして帝国の象徴が失われた重みが、装飾の細部以上に伝わってきました。

中央の力が弱まると、ハイダラーバードのニザーム王国、アワド王国、デカンのマラーター王国などが次々に事実上独立しました。
これは帝国が外から崩されたというより、内側から分解したことを示しています。
広大な版図はもはや一枚岩ではなく、ムガルは地方政権の連合体へと縮んでいきました。
地方勢力の自立は、帝国が持っていた「全体を統べる」機能が、現実には失われていた証拠です。

地域・勢力状態帝国にとっての意味
ハイダラーバードのニザーム王国事実上独立南方統治の空洞化
アワド王国事実上独立北インドの徴税基盤の分散
デカンのマラーター王国事実上独立軍事的主導権の分裂

18世紀後半になると、イギリス東インド会社が台頭し、ムガル皇帝は次第に名目的な存在へ後退しました。
軍事力と歳入を失った帝国にとって、皇帝号は残っても実権は残らない。
こうしてムガルは、インド全土を動かす主体ではなく、別の勢力が利用する象徴へ変わっていきます。
英領インド成立への前段は、この時点でほぼ整っていたと言えるでしょう。

インド大反乱と帝国の終焉、英領インドへ

1857年、東インド会社の支配に反発したシパーヒーが蜂起し、デリーで最後の皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立しました。
ここで皇帝は再び政治の前面に引き出されますが、それは帝国の復活ではなく、衰えた権威が抵抗の旗印として使われたにすぎません。
反乱が鎮圧され、バハードゥル・シャー2世が退位したことで、ムガル帝国は名実ともに滅びました。

この終幕は、約331年の歴史が近代史へ切り替わる境目でもあります。
皇帝が消えたあとに残ったのは、東インド会社の支配を経て形成される英領インドでした。
ムガル帝国の崩壊は一度の敗北で起きたのではなく、皇帝の短命化、ナーディル・シャーの略奪、地方政権の自立、そして会社支配の進行が重なって起きた連鎖だったのです。

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遠藤 理沙

中東・地中海地域の文明史を専門とし、イスラム圏10カ国以上のフィールドワーク経験を持つ。モスク建築や幾何学文様など、イスラム美術・文明の魅力を伝えます。

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