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ドゥルーズ派とは|独自の一神教の正体

更新: 高橋 誠一
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ドゥルーズ派とは|独自の一神教の正体

ドゥルーズ派とは、1017年頃のファーティマ朝エジプトでイスマーイール派から分かれて成立した、独自の一神教共同体である。第6代ファーティマ朝カリフ・ハーキムを受肉した神とみなし、神秘家ハムザ・イブン・アリーが教義を整えたこの宗教は、いまでは世界に約100万人の信者をもち、主にシリア、レバノン、

ドゥルーズ派とは、1017年頃のファーティマ朝エジプトでイスマーイール派から分かれて成立した、独自の一神教共同体である。
第6代ファーティマ朝カリフ・ハーキムを受肉した神とみなし、神秘家ハムザ・イブン・アリーが教義を整えたこの宗教は、いまでは世界に約100万人の信者をもち、主にシリア、レバノン、イスラエルに暮らしています。
中東のニュースで『ドゥルーズ派』という言葉に触れたとき、イスラム教の一支派なのか別の宗教なのか判然とせず戸惑うことがありますが、その曖昧さこそが最初にほどくべき入口でしょう。
彼らは自らをムワッヒドゥーンと称し、独自の聖典『英知の書簡』と閉じた戒律を持つ別個の宗教共同体として、千年近く独自の歩みを保ってきました。

ドゥルーズ派とは何か|一言でいうと『独自の一神教』

ドゥルーズ派は、唯一神への信仰、すなわちタウヒードを核にした一神教です。
成立は11世紀初頭の西暦1017年頃、ファーティマ朝エジプトにさかのぼり、イスマーイール派から分かれて独自の共同体として形づくられました。
現在は約100万人とされる信徒を抱えますが、イスラム教の一派としてだけでは説明しきれない、別宗教としての輪郭を持っています。

『ドゥルーズ』は他称、自称は『ムワッヒドゥーン(唯一神の民)』

シリアやレバノンの報道で「ドゥルーズ派の住民」という表現に触れると、最初はイスラム教の宗派だと思い込みやすいものです。
だが調べていくと、信徒が自分たちをムワッヒドゥーン、あるいはアフル・アル=タウヒードと呼び、外から付けられた名前と内側の自己認識がずれていることが見えてきます。
そのずれこそ、共同体の歴史をそのまま映しているのでしょう。

「ドゥルーズ」という呼称は外部からの他称であり、信者自身の名乗りではありません。
初めてアラビア語の自称ムワッヒドゥーンを知ったとき、外名と自称の差は単なる呼び分けではなく、迫害や境界意識をくぐり抜けてきた宗教共同体の記憶そのものだと感じました。

イスラム教の一派なのか、別の宗教なのか

結論だけ先に言えば、ドゥルーズ派はイスラム圏から生まれたが、現在の信徒は自分たちをムスリムではないと明確に自認しています。
源流はイスマーイール派にあり、教義形成の初期にはファーティマ朝エジプトの宗教世界と深く結びついていました。
とはいえ、今のドゥルーズ派を理解するには「出自はイスラム圏、自己認識は別宗教」という二面性を押さえる必要があります。

その違いは、聖典や戒律のあり方にも表れます。
コーランそのものを中心に据えるのではなく、独自の教義体系と閉じた実践を保ち、外部のムスリム共同体とは別の道を歩んできました。
似ているから同じ、ではない。
ここがまず押さえるべき点です。

観点ドゥルーズ派イスラム教主流派
宗教的位置づけ別個の宗教共同体イスラム教の内部
起源イスマーイール派から派生ムハンマドの啓示に始まる
自己認識ムスリムではないムスリムである
中心概念タウヒードタウヒード

名前の由来とされる宣教員ダラズィー

ドゥルーズという名は、初期の宣教員ダラズィーに由来するとされます。
ただし、その人物はのちに異端視された側にあり、信徒が自分たちの名として掲げるものではありません。
外から与えられた呼称が定着したこと自体、共同体が周囲からどのように見られてきたかを物語っています。

ドゥルーズ派は、成立当初から秘教的な性格を強く持ち、教義の深奥は限られた者にしか開かれませんでした。
独自聖典を一般に公開せず、信仰の中身も階層的に扱うため、外部からは実態がつかみにくいのです。
だからこそ、この記事では成立史から教義、社会構造、現状へと順にたどり、見えにくい輪郭を少しずつ解きほぐしていきましょう。

成立の歴史|ファーティマ朝とカリフ・ハーキム

ドゥルーズ派の成立は、シーア派の主流である十二イマーム派から分かれたイスマーイール派を起点に見ると流れがつかみやすいです。
イスマーイール派は10世紀にチュニジアでファーティマ朝を建国し、そのイマームがカリフを称しました。
つまり、ドゥルーズ派は中世イスラム思想史の外側に突然現れた集団ではなく、ファーティマ朝エジプトで生まれた一つの分岐点でした。

源流はイスマーイール派とファーティマ朝

イスマーイール派は、シーア派の主流である十二イマーム派から分かれた系譜にあり、その延長線上でファーティマ朝が909年にチュニジアで成立しました。
ここで重要なのは、単に政権ができたというだけでなく、宗教的権威を持つイマームが政治権力としてカリフを称した点です。
信仰共同体と国家が重なったこの構造が、後のドゥルーズ派のような新しい運動が生まれる土壌になりました。
年表に書き出してみると、イスマーイール派→ファーティマ朝→ハーキム治世という連鎖が、かなり明瞭に見えてきます。

カリフ・ハーキムの神格化とハムザ・イブン・アリー

ファーティマ朝の第6代カリフ、ハーキムの治世は996年〜1021年で、この時期に彼を特別な存在として神格化する一団が現れました。
ファーティマ朝の内部で多数派から分かれる形で運動が立ち上がったのは、ハーキム本人のカリフ位が宗教的意味を強く帯びていたからです。
教義を体系化したのは中央アジア出身の神秘家ハムザ・イブン・アリーで、彼が精神的指導者であり、事実上の創始者とされます。
ドゥルーズ派の出自を考えるとき、ここは人物名を押さえるだけでなく、権力と啓示の境界が曖昧になった場面として理解するのが近道でしょう。

ハーキム失踪(1021年)と弾圧、シリア山岳部への移動

1021年にハーキムが失踪すると、事態は急変しました。
従来の教義を守るイスマーイール派多数派が巻き返し、ハーキムを神格化する一団は弾圧を受けます。
彼らはエジプトを追われ、シリア地方の山岳地帯へ宣教と生き残りの場を移しました。
この迫害と移動が、のちの閉鎖的な共同体性格の出発点になったのです。
ハーキムの失踪という一つの出来事が、共同体の運命を迫害・移動・閉鎖化へと押し流した、その歴史の連鎖には重みがあります。

教理の形成には、イスマーイール派やスーフィズムに加えて、グノーシス主義や新プラトン主義の影響もあったと考えられています。
異なる思想潮流が重なり合うことで、単純な正統・異端の二分法では収まらない独自の世界観が形づくられました。
ムワッヒドゥーンと自称する背景を含めて見ると、ドゥルーズ派は信仰の内面化と秘匿を重んじる方向へ進んだ集団だと整理できます。

独自の教義|イスラム教主流派との5つの違い

ドゥルーズ派の教義は、イスラム教主流派と比べると、神観・死生観・終末観・聖典・実践の五つの軸で鮮明に分かれます。
中心にあるのは、第6代カリフ・ハーキムを神の地上における顕現とみなし、その失踪を歴史の終わりではなく救済史の始まりとして読む発想です。
ここに、厳格な唯一神信仰の世界で神格化論が立ち上がる緊張があり、教義史のダイナミズムが見えてきます。

独自聖典『英知の書簡』を持ち、コーランを唯一の規範としては扱わない点も見逃せません。
礼拝の方向や五行との関係も主流派の実践とはずれがあり、単なる異端ではなく、別の宗教的秩序を形づくっていることがわかります。
輪廻転生(タカンムス)をめぐる教えまで含めて整理すると、ドゥルーズ派はイスラム圏内部に生まれながら、主流派とは異なる独自の体系を築いた集団だと理解しやすくなるでしょう。

唯一神信仰(タウヒード)とハーキム神格化

ドゥルーズ派で最も際立つのは、第6代カリフ・ハーキムを「受肉した神」、すなわち神の地上における顕現とみなす神格化論です。
イスラム教のタウヒードは、アッラーの唯一性と超越性を守るため、神が人間の姿をとるという発想を厳に退けます。
だからこそ、この一点だけでもドゥルーズ派は主流派と決定的に分かれるのです。
神を歴史の外に置くのか、それとも歴史のただ中に現れた存在として読むのか。
そこに、宗教史の根本的な分岐があります。

この緊張関係は、イスラム圏の内部で神格化論が生まれたこと自体に意味があります。
外部から持ち込まれた異物ではなく、唯一神信仰の高度な秩序のただ中で、あえて越境的な解釈が形成されたからです。
ハーキムが死んだのではなく『お隠れ(ガイバ)』に入ったと理解されるのも、その神学の延長線上にあります。
失踪は不在ではなく、顕現の別形態として捉えられているわけです。

輪廻転生(タカンムス)という独特の死生観

ドゥルーズ派は、人間が輪廻転生(タカンムス)すると信じます。
ただし、その転生はドゥルーズ派の人間にのみ起こり、動物への転生は認めません。
ここが、同じく輪廻を語るアラウィー派との大きな違いです。
アラウィー派が動物への転生も含めて世界をめぐるのに対し、ドゥルーズ派では共同体の成員どうしの移行に限定されるため、死後の世界が一種の閉じた連続として構想されます。

この差を並べてみると、中東の少数派宗教が持つ死生観の微妙な輪郭が初めて立ち上がってきます。
主流派イスラム教が最後の審判と復活を中心に据えるのに対し、ドゥルーズ派では個人の生は一回限りで終わらず、別の人間として続いていく。
死を断絶ではなく移行とみなす発想は、共同体内部の記憶や倫理を支える装置でもあります。
輪廻は救いの仕組みであると同時に、共同体を時間のなかでつなぐ回路でもあるのです。

メッカ巡礼や礼拝の方向をめぐる実践の違い

ドゥルーズ派は、実践面でも主流派イスラム教と一致しません。
コーランを唯一の聖典とせず、独自聖典『英知の書簡』を持つことに加え、礼拝の方向もメッカに向ける標準的な形とは異なるとされます。
五行のうち何をどう受け継ぎ、何を別体系として組み替えるかによって、宗教共同体の輪郭は大きく変わるのだとわかります。

ハーキムの再臨待望も、こうした実践の背後で共同体を支える精神的支柱です。
失踪したハーキムは『お隠れ(ガイバ)』に入り、代理人イマームのハムザとともに『復活の日』に救世主カーイム(マフディー)として再臨し、正義を実現すると信じられています。
礼拝の向き、聖典の位置づけ、救済史の読み方が一本の線でつながるからこそ、ドゥルーズ派の信仰は単なる教義の寄せ集めではなく、一つの完結した世界観として読めるのです。

聖典と七つの教え|五行に代わる戒律

ドゥルーズ派では、イスラム教の五行にあたる外形的な実践よりも、聖典『英知の書簡(ラサーイル・アル=ヒクマ)』と七つの教えが信仰の骨格を形づくります。
成立期は1017年〜1043年頃とされ、後世にドゥルーズ派の賢者によって6巻、全111書簡として編纂されました。
コーランに代わる独自の教義書を持つ点も、この共同体の性格を理解するうえで外せません。

項目内容
聖典名『英知の書簡(ラサーイル・アル=ヒクマ)』
規模全111書簡
編纂形態6巻
成立期1017年〜1043年頃
信仰上の位置づけコーランに代わる独自の教義書
戒律体系五行に代わる七つの教え(七戒)

聖典『英知の書簡(ラサーイル・アル=ヒクマ)』とは

『英知の書簡(ラサーイル・アル=ヒクマ)』は、ドゥルーズ派の教義を支える聖典であり、単なる説教集ではなく、共同体の知識と規範を束ねた書物です。
全111書簡という分量は決して小さくなく、6巻に編纂されていることからも、断片的な教えの寄せ集めではなく、体系として読まれてきたことが分かります。
1017年〜1043年頃に書かれた書簡群が後世にまとめ直されたという時間差も、この聖典が成立の瞬間から固定されたのではなく、共同体内部で継承されてきた性格を示しています。

この規模と構成を知ると、「読める聖典」を前提に宗教を捉える見方が、いかに普遍的ではないかが見えてきます。
全111書簡という量自体が存在感を持つうえ、内容が一般信徒にそのまま開かれているわけでもないため、聖典は知識の共有物というより、共同体の秩序を守るための核として機能しているのです。
コーランとの対比で見れば、ここにドゥルーズ派の独自性がはっきり現れます。

五行に代わる『七つの教え』の中身

イスラム教の五行が信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼という実践を柱に置くのに対し、ドゥルーズ派には七つの教え(七戒)があります。
そこでは、真実を語ること、同胞の相互扶助、誤った信仰の放棄、悪の否定、神の唯一性の告白、神の御業への受容、神の意志への絶対的な服従が順に掲げられます。
名称だけを見ると宗教的戒律に見えますが、その中身は日常の倫理と内面の整え方に深く踏み込んでいます。

イスラム教の五行ドゥルーズ派の七つの教え重心の違い
信仰告白真実を語ること言葉の誠実さ
礼拝同胞の相互扶助共同体の倫理
喜捨誤った信仰の放棄信仰の選び直し
断食悪(イブリース=悪魔)の否定内面的な自己統御
巡礼神の唯一性の告白外形より信念
非該当神の御業への受容存在への姿勢
非該当神の意志への絶対的な服従徹底した帰依

五行と並べてみると、違いは明快です。
巡礼や定時礼拝のような外形的な儀礼が前面に出るのではなく、誠実さ、相互扶助、神への内面的服従が重く置かれています。
対照表を左右に置いて整理してみると、同じイスラム圏に源を持ちながら、戒律が儀礼中心か倫理中心かという重心の違いが一目で分かり、教義比較の面白さを実感しました。
ここで見えてくるのは、行為の回数ではなく、何を人間の中心に据えるかという発想の差です。

なぜ聖典は秘密にされるのか

『英知の書簡(ラサーイル・アル=ヒクマ)』は一般信徒に広く公開されず、深奥は限られた『知る者』にのみ開かれるとされます。
これは単なる閉鎖性の表れではなく、誤った解釈によって個人や共同体に害が及ぶことを避けるための仕組みとして理解できます。
知識を誰にでも同じように開くのではなく、理解の準備が整った者に段階的に託すという発想が、ここでは共同体の安全と結びついているのです。

この秘教的な性格は、次のセクションで扱う二層構造を考える前提にもなります。
聖典を持ちながら、それを全面公開しない宗教があると知ると、信仰とは読書の自由度だけで測れるものではないと気づかされます。
開かれた知識と守られる知識、その両方をどう配分するかが、ドゥルーズ派の教義を読み解く鍵になるでしょう。

ウッカールとジュハール|知る者と知らぬ者の二層構造

ドゥルーズ派では、信徒はウッカール(知る者・入信者)とジュハール(知らぬ者・未入信)の二層に分かれます。
教義の深奥や聖典の核心はウッカールにのみ開かれ、多くのジュハールは外形としての戒律や共同体の規範を守りながら、奥義には踏み込まない仕組みです。
日本の宗教観では「信仰は全員で同じ深さまで共有するもの」と受け取りがちですが、この分層は、知識そのものが信仰共同体の秩序を形づくるという発想をはっきり示しています。

ウッカール(知る者)とジュハール

ウッカールは、教義の解釈や儀礼の意味を担う側であり、共同体の内側でもさらに限られた知の層を形成します。
対してジュハールは、日々の規範を守る信徒であっても、すべての教義にアクセスするわけではありません。
ここにあるのは単なる「上級者と一般信徒」の区別ではなく、真理への接近を段階化する宗教制度だと言えるでしょう。
だからこそ、学びは一律ではなく、共同体の中で慎重に受け渡されてきました。

この構造を知ると、信仰が必ずしも同じ深さで全員に開かれるわけではない、という事実に視野が広がります。
筆者にとっても、日本の宗教ではあまり前面に出ない「内部にさらに内部がある」感覚として印象に残りました。
知ること自体が特権であり、同時に責任でもある。
そこがドゥルーズ派の特徴です。

タキーヤ(信仰の秘匿)と外部への姿勢

外部に対して信仰を秘匿するタキーヤ(信仰の秘匿)が認められてきたのも、この二層構造と深くつながります。
ここでの秘匿は、利得のために事実を隠す態度ではありません。
歴史的な迫害から個人と共同体を守るための実践的な適応として根づいたもので、外に向けて無防備に教義をさらさないことが、生存の条件だったのです。
迫害の経験が、秘匿を例外ではなく文化に変えました。

そのため、タキーヤは単なる防御策ではなく、共同体を長く維持するための知恵でもあります。
外の社会に合わせて振る舞いながらも、内側の核は守る。
その柔軟さがあったからこそ、強い圧力の下でも信仰の輪郭が崩れにくかったのでしょう。
閉じることは、ここでは弱さではなく持続の技術です。

礼拝施設『ハルワ』とコミュニティの中心

ドゥルーズ派の礼拝施設はハルワ(ハルワト)と呼ばれ、祈りの場であると同時に共同体の結束を確かめる場でもあります。
モスクのように広く開かれた空間というより、内へ閉じた信仰実践を支える場として機能しており、その閉鎖性こそが宗教の性格をよく映しています。
レバノンのハルワト・アル=バヤダは中心的な聖所・神学校とされ、精神的拠点としての重みを持ちます。

ハルワが村社会の中核を担うのは、礼拝が単独の行為ではなく、共同体の記憶や規律を次世代へ渡す営みだからです。
誰がどこまで知るのか、どの言葉を内に留めるのか、その判断もまた共同体の秩序に含まれます。
成立期の迫害体験を背景に、外に対して教義を閉じ、内に対しても深奥を限られた者に委ねる仕組みが整えられ、千年にわたって教義の純度と結束を保ってきました。
そう考えると、ハルワは単なる建物ではなく、共同体そのものを支える装置なのです。

改宗できない閉じた宗教|なぜ千年も維持されたのか

ドゥルーズ派は、改宗を受け入れず、離脱も認めず、異教徒との通婚も原則として退けるという三重の閉鎖性を持つ宗教共同体です。
成立からおよそ1世紀後に入信の門が事実上閉じられたため、信者であることは信仰だけでなく出自と深く結びつき、宗教であると同時に民族に近い性格を帯びてきました。
布教で広がることを前提にした宗教観から見ると異例ですが、その閉じ方こそが、迫害の歴史を生き延びるための知恵だったのだと見えてきます。

改宗も通婚も認めない仕組み

ドゥルーズ派は新規の改宗を一切認めず、外からの入信も、内からの離脱も、異教徒との通婚も原則として認めません。
この仕組みは、単に門戸が狭いという話ではなく、共同体の境界そのものを信仰実践の一部にしてきた点に特徴があります。
外部に広がるより、内部の結束を守ることを優先する発想であり、世界でも稀な「改宗者のいない宗教」と呼ばれる理由はここにあります。

入信の門が成立から約1世紀後に事実上閉じられたことで、現在のドゥルーズ派は、その時点で共同体にいた人々の子孫という性格を強く帯びています。
信者であることが選択ではなく出自に近づくため、宗教共同体であると同時に、民族宗教に近い輪郭を持つようになりました。
信仰内容だけでなく、婚姻や家族の継承まで含めて共同体が閉じているからこそ、このアイデンティティは長く保たれてきたのです。

閉鎖性が生まれた歴史的背景

なぜここまで閉じたのかを考えると、成立期から続いた迫害の記憶を避けて通れません。
周囲の多数派社会のなかで生き延びるには、教義を外へ広げるより、共同体の輪郭を硬く保ち、内部のまとまりを失わないことが先決だったのでしょう。
改宗を拒み、通婚を避ける姿勢は、排他的な気質の表れというより、分裂を防ぐための防衛策として理解すると腑に落ちます。

ℹ️ Note

布教によって信者を増やす宗教観に慣れていると、あえて広げないドゥルーズ派の在り方は驚きです。けれども、迫害の圧力の中で共同体を守るには、境界を曖昧にしないことが最も合理的だったのだと思わされます。

この視点に立つと、閉鎖性は欠点ではなく、千年単位で共同体を存続させるための技術でした。
教義の純度を守ることと、家族や婚姻を通じた集団の一体感を守ることが、同じ方向を向いていたのです。
ここに、ドゥルーズ派が長く消えずに残った理由があります。

民族宗教としてのアイデンティティ

閉鎖性の帰結として、ドゥルーズ派の信者数は大きく増えも減りもせず、世界で約100万人前後を保ってきました。
布教による拡大は起こらない代わりに、外へ広がらないことで内部の結びつきが濃くなる。
そうした構造のなかで、信仰は個人の内面だけでなく、共同体の記憶や帰属意識そのものになっていきます。
数量の伸びより、継承の安定を選んだ宗教だと言えるでしょう。

この点を考えると、ドゥルーズ派は単なる少数宗教ではありません。
宗教でありながら民族のように受け継がれ、民族でありながら教義を核にまとまる。
その重なりが、外から見ると閉鎖的に映る仕組みを、実は強い生存戦略へと変えています。
筆者自身、布教で増えるのが当然だと考えていた宗教観をここで揺さぶられましたし、改宗も離脱もできない仕組みを迫害を生き延びる知恵として捉え直したとき、この共同体が千年続いた理由がはっきり見えてきました。

現在のドゥルーズ派|分布と中東での立ち位置

ドゥルーズ派は、いまもシリア・レバノン・イスラエルの三か国に分布して暮らしており、世界の信者の約45〜50%がシリア、約35〜40%がレバノン、10%未満がイスラエルに居住します。
シリアでは70万人超、レバノンでは約30万人、イスラエルでは約15万人とされ、人口規模だけ見れば少数派ですが、各国の政治と地域社会に残してきた足跡は小さくありません。
国境で分断されても共同体としての結びつきを保ち続けてきた点に、この宗派の特徴がよく表れています。

シリア・レバノン・イスラエルの三か国に集中

ドゥルーズ派の居住分布が示すのは、単なる地理的な偏りではありません。
シリア、レバノン、イスラエルに集中して暮らしてきたことで、彼らはそれぞれの国家体制のなかで異なる立場を取りつつも、同じ共同体としての輪郭を保ってきました。
とくにシリアでは70万人超、レバノンでは約30万人、イスラエルでは約15万人という規模感があり、地域社会の中で無視できないまとまりを形づくっています。
断片的にニュースで目にするだけでは見えにくいのですが、ここには中東の国境線をまたぐ生活圏がそのまま残っているのです。

レバノンのジュンブラート家など政治的指導者

レバノンでは、ジュンブラート家のように政治の表舞台で大きな影響力を持つ世襲のドゥルーズ派指導者が存在してきました。
少数派でありながら国政において無視できない存在感を保ってきた背景には、共同体内部の結束力と、外部の政治環境に対して現実的に対応する姿勢があります。
宗教共同体であると同時に、地域の有力な政治集団でもある。
そこがドゥルーズ派を理解するうえでの要点でしょう。
単に信仰の問題ではなく、政治秩序のなかでどう生き延びるかという長い実践の歴史が重なっています。

近年の中東情勢のなかのドゥルーズ派

イスラエルのドゥルーズ市民は約15万人で、国の北部に集中していますが、同国の他のアラブ系住民とは異なる立場に置かれることが多いです。
それぞれの土地で、居住する国家との関係を現実主義的に築いてきたことが、この共同体のもう一つの顔だと言えます。
近年はシリア南部スワイダー地方をめぐる情勢も国際ニュースで注目されており、ここでも詳細な政治評価を急ぐより、状況が流動的であることを踏まえて見ておく必要があります。
ニュースの中で断片的に流れる「ドゥルーズ派」という名前は、ここまで見てくると、歴史と教義に裏打ちされた一つの共同体として立体的に見えてくるはずです。

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高橋 誠一

大学でイスラム学を専攻し、カイロ・イスタンブールへの留学経験を持つ。コーランのアラビア語原典を参照しながら、教義体系を平易な日本語で解説します。

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